ラ グ オ ル 探 検 隊 豆 知 識
管理人のハートを掴んで離さない金色に輝くアレ

 

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「PSO」/ ラグオル探検に命を懸けた漢の、意味不明豆知識ページ…。
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 ■ 管理人ラブラブのアレ…Golden Dolphins's
 「シャチホコの起源」 を探ってみましょう。 古来、大型建築物の屋根の先端は、雨水が浸入しないよう他の部位とは異なる大きくて特殊な形状をしていました。 我が国の古墳時代 (6世紀前半) の朝廷の建築物には、「千木(チギ)」 と呼ばれる、後の 「鉾(ホコ)」 状の飾りがありました。
 
 目立つ位置でもあり、時代を下ると様々な装飾を施すようになっていき、茅葺きを経て屋根瓦が広まった中国の晋代 (西暦200年〜300年) では、こうした位置の瓦は飾られ、「鴟尾(シビ)」 と呼ばれる形状になりました。 これにインドの伝説の怪獣 「マカラ」 の厄よけを合わせたのが、「鯱 (シャチ)」、「シャチホコ」 の始まりだと云われています (いわゆる ほ乳類のシャチとは関係ありません)。
 
 「マカラ」 には厄よけの他、雨を降らす怪魚、もしくは巨大ワニと信じられていたため、 “水を呼ぶもの” すなわち “火災を防ぐまじない” として発達していったのですね。
 
 ちなみに 「シャチホコ」 と一般に呼ばれるアレ、ですが、正式な名称は、「金鯱 (キンシャチ)」であり、キンはともかく名称後半の 「ホコ」 は、庶民の間から出た俗称が元になり、後年つけられたものとされています。 「ホコ」 は、文字通り槍のような形をした武器 「鉾」 の事であり、古来日本では、神事に鉾を用いる慣習があり、それはお祭りの際の山車の屋根の上に飾られる鉾に見ることが出来ますが、これらのイメージが渾然一体となって付けられた名前なのでしょう。
 
 こんにち日本でもっとも知られる大シャチホコ、名古屋城のソレは、まさにそうした歴史の集大成、極致と云えるでしょう。 城の大棟に鯱を掲げることは室町時代の前期、城郭形態の完成した頃からですが、戦国時代以降の城で見られるとりわけ大規模なシャチホコのルーツは、織田信長の安土城と云っても差し支えないでしょう。 天下人の城としての誇示、象徴として、信長、秀吉、家康らが、とりわけ巨大なシャチホコ、金鯱 を、天守閣の頂上に備え付けさせたのだと思います。
みゃ〜  名古屋城のシャチホコは南側が雌、北が雄と云われ、これに費やした黄金は、大判金 1,940枚、小判 17,975両だと伝えられています。 巨大な名古屋城の威容と共に、富と権力の象徴と云うわけですね。 その輝きはすさまじく、四方一里 (4Km四方) の東海道、佐屋街道、美濃街道の旅人の目にも飛び込み、名古屋城の威厳をおおいに示したとされています。
 
 筆者ももちろん、その輝き…と、愛くるしい造形に心奪われた一人です (^-^;)。 実物を見たのは随分と後になってからなんですが、テレビや写真でチラッと見るたび、心を躍らせていました。
 ちなみに名古屋港で乗ることの出来る遊覧船は、じつにこのシャチホコの姿を模した船影となっていますが、名古屋に遊びに行った際にそれを間近で見て、トドメを刺されたって感じでした。 可愛いなぁ…。
 
 名古屋城の金のシャチホコの詳しいデータは、以下の通りです。
 区分 高さ 重量 金板 金厚 鱗数 金量
 雌 (南側) 2.579m 1,215Kg 18K 0.15mm 126枚 43.39Kg
 雄 (北側) 2.621m 1,272Kg 18K 0.15mm 112枚 44.69Kg
 これほどのブツですから、歴史の中でもたびたび登場し、例えば財政難に陥った尾張藩を救うために使われた記録があったり、あるいは盗難に遭った事もあります。 さらに第二次世界大戦の折りには空襲で天守閣共々消失。 しかしその復活を望む市民らの運動もあり、昭和34年に天守閣と共に再建、再び城頭に燦然と輝き現在に至っています。 名古屋城のシンボルとしてはもちろん、名古屋の象徴、日本の誇り、世界的遺産、太陽系の至宝、銀河の中心として青空を泳ぎ続けていますっ (;_;)/。
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