何も考えずに済んで楽か、それとも杞憂で苦しいのか 「お花畑」
「お花畑」 とは、天然あるいは人工的に設けられた顕花植物 (種子植物) の群生を指す言葉です。 高山帯に自然に発達する草原や、出荷販売を前提とした花き生産畑、鑑賞を目的としたもの (園や壇) などがあります。 いずれもほぼ一時に一斉に開花し、色とりどりの鮮やかな花で一面が覆われることからそう呼ばれます。
一方で、こうしたのどかで牧歌的、平和 的で表面的には美しいさまを何かの例えとして用い、皮肉や揶揄として使うこともあります。 例えば 「頭の中がお花畑」 と云えば、苦労や心配ごとなどもない能天気で楽天的すぎるさまを、「お花畑理論」 なら、思慮が浅く幼稚で表面的、中身のない甘っちょろいキレイごとや 理想論、机上の空論などを指します。 花畑ではなく花が咲いていると表現することもあります。
またお花畑に天国やあの世のイメージを重ね、死語の世界と関連付けた言い回しがされることもあります。 例えば 「居眠り運転でお花畑に行きそうになった」 みたいな言い回しです。
非現実的な平和論などを指す使い方も
ネット などでことさらにお花畑を使う場合は、おおむね現実を無視し自分たちに都合の良い部分だけを見たり主張する理想論や空論を指して使うことが多いでしょう。 とりわけリベラルや左翼と呼ばれるような人たちのいう 「平和論」 や 「戦争反対論」 を指して使うことが多いかもしれません。
「平和 が大事」「戦争反対」「命は大切」「差別反対」 などは当たり前すぎるくらい当たり前の話であり、少なくとも現在の日本国民の大多数の価値観で云えば、絶対的な正論であり誰も反論できないものです。 しかし絶対的な正論であるがゆえに容易に硬直化し、理想とは裏腹に現実に生じてしまう戦争や殺人や差別を直視できなくなってしまうこともあります。 現実を見据えた柔軟な考え方や手段を妨げ、「戦争について考えること自体がダメ」「戦争を想起するもの全てを世の中から消すべきだ」 などは、その典型例と云えるでしょう。
理想を現実のものにするためには、厳しい現実と向き合わなければなりませんし、最悪のケースを想定した対策も練る必要があります。 場合によっては苦渋の選択や決断が必要になることだってあります。 誰も反論できないような耳障りが良いだけの自明の正論は、逆に云えば何も語っていないのと同じです。 全てではないものの、一部の平和論者が 「平和 (あるいは憲法9条とか対話が大切だとか) を唱えるだけで平和が訪れると考えている」 ように見えることから、その薄っぺらさや現実逃避に対して皮肉る意見が出がちなのでしょう。
そもそもの話として、話し合い・対話・相互理解で物事を本当に解決するつもりなのなら、その模範となる話し合い・対話・相互理解を言葉ではなく行動や結果で示してほしいものです。 外国の軍隊どころか同じ日本人で言葉も文化もおおよその価値観すらも同じなのに、彼らの主張はほとんどの日本人たちに伝わらず理解や支持もされていません。 憲法9条を金科玉条とする人たちが集う政党は選挙のたびに負け、それどころか仲間として活動していたはずの同志とすら醜く争い仲違いし分裂しまくっています。 同志や仲間すら説得できない人たちの言葉が国民、さらには外国人に響いたり心を動かすとはとても思えません。 街頭演説や国会の議論を聴いていても、敵対勢力への揚げ足取りや同じ批判の繰り返し、一方的なレッテル貼りや重箱の隅を楊枝でほじくるような議論、それも不機嫌な表情と口調で口やかましく叫ぶだけで、批判や罵倒ばかりです。
話し合いで物事が解決するのは、対話している双方が相手の主張に耳を傾け、譲れるところは譲り、問題を解決する意志を持っている時だけです。 そして問題を解決すればメリットがあるだけでは不十分で、逆に解決しなければ大きなデメリットが生じるとの危機感を与えるだけの、こちら側の実力や毅然とした姿勢が裏付けとして必要です。
自分の主張だけを通そうとする相手、問題を解決しようとしない相手、一旦は合意した過去の話を何度も蒸し返し前提をひっくり返す相手、相手の譲歩や友好的な態度を弱さの表れだと受け取ってさらに要求を突き付けてくる相手、友好の願いを交渉のカードとしか考えない相手と実力もなしにどう会話を成立させるのか、実際に自分たちでやって結果を出して欲しいものです。 政権を担ってない (実力がない) 政治家や活動家など、国家間の利害関係を争う場では、対等な交渉の席にすら着かせてもらえないでしょう。
できもしないこと、あるいはもしかしたら本当はやろうとすらしていないかも知れない人たちの云う 「こうしろ」「ああしろ」 の声は、まともな知性や守るべき大切なものがある人ならば、無責任に賛同などできるわけがありません。






