右でも左でもない… 「普通の日本人」
「普通の日本人」 あるいは 「右でも左でもない日本が好きなだけの普通の日本人」 とは、主に保守的、あるいは右派的な主張を持つ人たちが、自らのポジションを示す際にしばしば使うフレーズの一つです。 ネット で使う名前 (ハンドルネーム) の一部に加えたり、ツイッター といった SNS の プロフィール に、自己紹介 の一部として掲示したりします。 その意味ではネットにおける 属性名乗り の ネットスラング のひとつといっても良いかもしれません。
この 「普通の日本人」 という言葉は、端的にいえば 「右翼ではない」 という ニュアンス を非常に強く持った言葉だといって良いでしょう。 「右でも左でもない」「公平中立で真ん中だ」「ニュートラルだ」 という意味ももちろんありますが、それよりは 「右翼ではない」 の意味が強いんですね。
その理由のひとつは 「右翼に見られたくない」 ことがありますし、もうひとつには、「右翼が右っぽい意見を云っても当たり前で価値がない」 という意味もあります。 これらは、街頭で騒音を立てるいわゆる街宣右翼に怖くて迷惑な人たちというイメージがあるため同一視されるのを避けたいという意味もありますし、客観的な立場からの意見に価値があるとの考え方、そして何より、過去の大手マスコミの論調で、右側の意見が常に ネガティブ に扱われ、無視され続けてきたことと無縁ではありません。
極左の活動は善良な市民の活動扱い、その逆は極右扱いのマスコミ
日本のマスコミの多くは、過去に無差別テロを行ったような極左テロ集団の構成員が深く関与しているような団体やデモを、「市民団体」「市民デモ」 と呼び、あたかもごく普通の善良な一般市民による自然発生的な草の根活動であるかのように報じ、もてはやしてきた事実があります (こうした偽の草の根運動を揶揄して人工芝と呼ぶこともあります)。
一般人や学生が中心の旗揚げしたばかりの団体なのに議員会館を使った記者会見が開けたり、賛同者に政治家やメディア関係者が大勢いたり、活動が始まったばかりなのに大手メディアがこぞって取材し取り上げるなど、どう考えても 「普通の草の根運動」 には見えないものでも、これらの団体の活動を紹介するときは、連絡先や支援のための方法や窓口 (活動資金カンパのための銀行口座など) まで毎回丁寧に紹介するような新聞社もあります。
一方で、それら市民団体の主張に反する活動を行う市民や団体は 「右翼団体」「極右」 などと呼び、政治的に偏った特別な人たちや、時として反社会的な組織と同等の扱いをします。 国旗掲揚や国歌斉唱といった日本以外の国では式典やスポーツ大会、デモ行進などで当たり前に行われる普通の行為ですらも 「右傾化だ」「軍国主義に回帰だ」「軍靴の音」 と、まるで悪いことのように批判して報じてきました。
こうした 「極左による活動は一般市民活動の扱いとし、それ以外の活動はたとえ一般市民のものであっても右翼、極右扱い」 という不公平さ、思想的な偏りを冷ややかに見る人たちは、これを揶揄して市民団体を 「プロ市民」(市民のふりをする活動家のこと、本来は行政の監視役としての 意識が高い 市民の意味でもあった) と呼んだり、あるいはそうした人たちが団体名に好んで使う 「〇〇市民の会」 といった名称を自分たちの活動名に当てこすりとしてつけるなどの意趣返し・カウンター行為を行います。 これは ネット を中心に2000年代あたりから本格化します。
この当時、こうした人たちの批判の矛先が韓国 (および北朝鮮) だったことから、当初はもっぱら 「嫌韓厨」 などと呼ばれていましたが (嫌韓に中学生の俗称 「中坊」 の 誤変換 である 厨房 を接尾して揶揄した表現)、その後2005年あたりから中国による大規模な反日暴動などが起こり、「嫌韓・嫌中厨」 といった表現も登場。 それ以前から使われていた、ネットの中でだけ右翼的な威勢の良い意見を書き込む人を意味する 「ネトウヨ」 も広まり、その範囲も拡大し、単に日本の良さを主張したり、日本を根拠なく悪しざまに批判する意見に異を唱えただけの人にまでネトウヨとのレッテルが貼られ、バッシングが強まることとなりました。
その結果、時期を前後して同じようにネットでよく使われるようになったのが、すなわち 「普通の日本人」 あるいは 「右でも左でもない日本が好きなだけの普通の日本人」 なのでした。
「真ん中」 の意見は公平中立・不偏不党な客観的な価値ある意見に見える?
これは別の言い方をすれば、左右それぞれの人が 「真ん中 = 普通の人」 ポジションを奪い合うという構図とも云えるでしょう。 まず左側の人たちがマスコミなどメディアの力を借りて 「左を普通」 と呼び、それに反する立場、あるいは真ん中だと自分で思っている人が、「私たちこそ普通だ」 と反論するような形です。
極左も嫌だけど極右も嫌だという意味では中立というよりはノンポリに近く、前述したような自国の国歌・国旗の扱い、あるいは自分の国が好きだといった世界中どこの国でも普通の人が当たり前に口にすること (ごく普遍的な保守的意見) を、日本人が日本に対して行うとなぜか 「極右」「右傾化」 などと批判されるのはおかしいんじゃないの?という素朴な疑問から生じたもので、時代性や文脈を理解しないと意味不明なことになると思います。
一方で、あからさまな排外主義・差別主義者がこの言葉を隠れ蓑として使う場合ももちろんあり、それは批判の対象となっても仕方がないでしょう。 逆の立場の人からは 「このフレーズがあるだけでネトウヨだ」 といった決めつけが行われることもありますが、これはどっちもどっちの話でもあります。
なお政治外交軍事といった分野でのウヨサヨ論争は続きながらも、2010年以降はフェミニストを代表とするジェンダー問題なども拡大、その後も存在感が増し、ネットにおける論争の中心になりつつあります。 それに伴い、女性団体やフェミニスト団体などに対するカウンターとしての普通の日本人 (あるいは普通の女性) も使われるようになっています。 自称フェミニストの人たちが、やたら 主語を大きく して 「私たち女性は」 などと主張するので、「異なる意見を持つ女性もいる」「一緒にされたら困る」 ということなのでしょう。