気になるけれど、◯◯の信者として手を出すわけには… 「宗教上の理由」
「宗教上の理由」 とは、何らかの熱心な ファン (Fan) や、反対に強烈な アンチ などが、自分が信奉しているものと競合しているもの、あるいは嫌悪しているものと関係があるものに対し、それがどれほどその人にとって客観的・合理的に魅力があるものであっても、絶対に手を出さないと決めている様をあらわす言葉です。 「信仰上の理由」 あるいは 「縛りプレイ」 と呼ぶ場合もあります。
わかりやすいケースでは、特定の国を嫌う人たちが、徹底してその国の製品を避けるとか、その国の製品ではないけれど関係があるもの、ありそうなもの、連想するもの (例えばその国のタレントが広告に起用されるなど) を意図的に避けるなどとなります。
商品選びにおいて性能や品質、コストパフォーマンス などの重要な項目は度外視し、「自分の主義主張、感情的な好き嫌い」 だけを最優先にし、そのために不利益を被ってもかたくなに避ける態度が、熱心な宗教の 信者 に見えるからで、さらに進んだケースでは、自分が避けるだけでなく友人知人にも避けるよう勧めたり、もっともらしい 「避けるべき理由」 を後付で無理矢理に作る場合もあります。
こうした言葉の使い方は昔からあるのですが、おたく の 界隈 では、強烈なアップル製品のファンが魅力的な他社製品が登場しても表向きは一切興味を示さず、客観的に見て明らかにその商品に劣るアップル製品をありがたがって使ったり、反対にマイクロソフトの信奉者が同じような行動をとる場合を指して、よく使っていたものです。
自称他称、いずれでも使われる 「宗教上の理由」
本来の 「宗教上の理由」 とは、教義上禁止されている特定の食べ物を一切口にしない (酒や豚肉を避けるなど)、特定の場所に立ち入ったり近寄ったりしない (初詣で神社に行かない、鳥居をくぐらないなど)、医療行為を避ける (輸血を拒否する) など、日常生活に強い不自由、不利益を被っても、帰依している宗教の教えや戒律に忠実であることを指す言葉です。 「宗教上の理由により◯◯はできません」 という訳です。
こうしたことは、特定の宗教を信じていない、あるいは宗教に帰依してしない人にとっては 「面倒なやつだ」「理解できない」 と思われがちですし、日本では宗教を避ける人や特定宗教に属していない人も多いので、宗教がらみの事件 (輸血を拒否して死ぬなど) が起こると、「宗教上の理由」 という言葉が、面白おかしく触れられるという傾向があります。
また熱心なファンを信者 (儲) などと揶揄する場合もあり、かねてから ネタ、冗談として宗教の教義とは無関係に 「宗教上の理由」 を使うケースも多かったものです。
その後 ネット の時代となり、ある種の ネットスラング としてもこうした言い回しが広く流布。 熱心で熱狂的な アニメ や マンガ、ラノベ、ゲーム のファン、あるいはそれらの制作会社や 作者、声優、タレント、アーティストに関しても、こうした言い回しを転用して揶揄したり、逆に本人が自称する場合なども増えています。
生活が成り立たなくなるほどの金品の要求とか、輸血のように命に関わるようなもの (それが本人ならともかく、子供や親姉弟、友人など) でことさらに 「宗教上の理由」 を振り回すのは困りますが、パソコンのパーツや電気製品、娯楽のためのソフト、食べ物などは、どれをどんな理由で選んでも本人の自由ですから、他人にまで干渉しなければ、あまり目くじらを立てても仕方がないでしょう。
なおこうした主張を広く一般に訴えて広めたり、大勢の志を同じくする人たちで運動として盛り上げるものに 「不買運動」 などがあります。 ただし対象となる商品や コンテンツ そのものは好きで、メーカーや広告戦略、あるいは作者や事務所の方針だけが気に食わない場合、深刻な ファンのジレンマ に陥って、ファン同士で争いが生じたり、ファン自身の身動きが取れなくなるケースもあります。
ちなみにこうした言い回しが広まり、ごくありふれた若者言葉のような扱いとなると、何かを断るときの単純な言い訳として使うケースも増えています。 例えば 「飲み会は宗教上の理由で参加しません」「残業は宗教上の…」 といった具合です。
「宗教上の理由」 との付き合い方
ネタとしてのそれではない場合、日本には信教の自由や思想信条の自由がありますし、他者から見て理解不能なものであっても本人が自分自身について何かを決断した場合には、それを尊重する姿勢が大切でしょう。 子供や家族に生命や財産を左右するあれこれを勝手に押し付けられても困りますが、相手が大人で自己責任で自分のことを決めたのであれば、例え大切な人であってもその意思は尊重するしかないのかなと思います。 もちろんそこに至るまでにとことんまで話し合いをするのは、お互いのためにもあっても良いと思いますが。
とりわけ伝統的な一部の宗教に熱心に帰依する人を説得するのはほとんど不可能に近く、その場合は結果的に本人がそれで命を縮めたり一文無しになることがあったとしても、それが寿命だ運命なのだと考えて周囲の人も自分を責めないことが大切だと思います。 また家族ではなく隣人の場合は、あまり深いところまでは入り込まず、無視できる部分は無視する方がお互いのためでしょう。
例えば特定の食材を宗教や思想信条上の理由で口にできない人と、その食材が大好きな人とでは、どちらかもしくは双方が相手に寄せなければ、楽しく同じ鍋料理を囲むことはできません。 無理やり囲ませたら争いが起きて皆が 不幸 になってしまいます。 しかしそれぞれが自分の弁当を持ち寄って同じテーブルで楽しく食事はできるでしょう。 その際、他人の弁当が気になっても文句は云わず、そもそも自分に合わなさそうなら他人の弁当を覗き込まなければ良いでしょう。 話し合いや尊重さえできれば同じ鍋をつつくことができるかもしれないという勘違いは、しない方が良いのです。
自分の嫌いなものを無理に認めたり相手のそれを排除するのではなく、それぞれの考え方は違っていて当たり前、お互い様ということで法に触れない限りは見ないふりをして皆がちょっとずつ我慢する、いちいち相手の様子をうかがって意見などせず、ほどほどの距離を持って口論から殴り合いに発展みたいな最悪の結果だけは避けて何となく一緒に生活をしていく。 他人を尊重するとか多様性の実現とは、つまりはこういうことだと思います。 話し合いで解決できるのはお互いが自分の意見を変えるつもりがあること、妥協するつもりがある時だけです。 そしてそういう人は、驚くほど少ないものです。
もっとも、詐欺・犯罪グループや反社会的勢力とほとんど同じようなカルト宗教の存在などもあり、これらはしばしば本人だけでなく、家族や親戚中にまで経済的・精神的な 害悪 を振りまくこともあり、信教の自由で片付けられない難しい問題があったりもしますけれど。
新興宗教やカルトに限らず、伝統的な宗教でも、時代性を考えてもなお教義そのものはかなり理不尽かつ非合理的、しかも苛烈なものです。 詐欺事件やテロ事件を起こすようなカルト教団とか、日本ではあまりなじみのないイスラム教などはしばしば批判の対象となりますが、仏教やキリスト教だって聖典や教義の根本部分とか修行の非科学的・非合理的・および苛烈さはかなりのものです。 そもそもほとんどの宗教は、信仰のためなら全てを捨てよ身を捧げよが デフォルト です。 法律に従うかどうかで判断しても良さそうですが、法律を守るという 世界観 の外にいる人たちにそれが伝わるのか、それがその人の人生にとって正しいことなのかも時と場合によることもあります。
とはいえ、現代にあってもテロや刑事事件を起こすような反社会的な団体とか、単なる金儲けのための詐欺集団のようなカルトと伝統的宗教とを 「どっちもどっち」 でくくるのも、それはそれで実態に反する不誠実、場合によってはカルトを利する言でしょう。
筆者 は文化や歴史としての触れ方以外、あらゆる宗教に距離を置いていますが、それで救われる人もいることは理解しますし、信仰との向き合い方は人それぞれです。 親しい人にそうした人がいるとなかなか厳しい現実がありますが、なるようにしかならないのが切ないところです。