会話ができない、辛い、でも友達は欲しい… 「コミュ障」
「コミュ障」 とは 「コミュニケーション障害」 の略です。 ネット の世界では 「人と話をすることが苦手」「他人との交流に困難や苦痛を感じる」「集団行動が厳しい」「極度の人見知り・引っ込み思案」 といった意味で使われ、2000年代中頃から急速に広まった ネットスラング・若者言葉の一種となります (本来は医学用語 (後述します)。
もっぱら場の空気や話の文脈が読めないとか社会性や想像力の欠如などにより、「他人とまともな会話や意思疎通ができないやつ」「他人の気持ちが理解できず独りよがり」「友達がいない寂しいやつ」 といった他者への侮蔑として使われますが、むしろ自分自身に当てはめてコミュニケーションが苦手だとの自称・自虐的 な使われ方も非常に多い言葉でしょう。
その特性や特徴の類似性から ぼっち や 引きこもり、非モテ、ネクラ (陰キャ・闇属性)、ニート、いじめられっ子、スクールカースト (スクカ) 下位、あるいは 自閉症 (アスペ)、発達障害、適応障害、被害妄想、対人恐怖症、ネガティブ、ダウナー、メンヘラ といった 属性 や症名などと複合したり、一部が同一視されることもあります。 おたく や 腐女子、重度の ネット民 といった属性と関連付けられることも少なくありません。
なおコミュニケーションをする能力のことはコミュ力、直接的な対義語は コミュ強 (コミュニケーション強者) やコミュオバ (コミュニケーションオバケ) と呼ばれます。 対義語にはこのほか、リア充 や 陽キャ、あるいは ウェイ系 などがそうだとする場合もあります。 また完全なコミュ障ではないけれどコミュ強でもなく、微妙な感じのコミュ力しかない状態は 1楽2活3黙 とか 中孤 のように呼ぶこともあります。
「友達が欲しい」 のではなく 「友達がいない状態が嫌」 みたいな
豊かな人間関係は日々の生活や人生における潤いをもたらすものです。 とくに学校といったおいそれとは変えられない閉鎖された人間関係の場が生活の大きなウェイトを占め、また他人の目がやたらと気になるような思春期や大学生あたりまでは、コミュニケーション能力のあるなしやそれによって生じる人間関係の悩みは、極めて重要なものだと感じられるものです。 また 「友達100人できるかな」 の価値観と、友達もいないのは 「寂しいやつ」「みっともないやつ」「惨めで恥ずかしいやつ」 といった価値観によって、精神的に追い詰められる人が少なくないでしょう。
リア友 がいなくて一人でいることが寂しいというよりも、それを他人に知られるのが恥ずかしい、とても惨めだと感じられることもあります。 これは一人でいるのが好きな孤独癖のある人でも容易に陥りがちな感覚で、とくに小学校から高校あたりまでは学校行事のあれこれが 「仲の良い友人がいること」 を前提としたものが少なくない (班分けやグループ分け) ことから、トラウマになる レベル で精神的な ダメージ を受けるようなこともあります。
こうしたダメージの原因は人間関係だけではありませんが、生徒・学生のうちは何をするにも学校の友達関係が土台となりがちなため、それらが思うようにいかない場合、いわゆる 「青春コンプレックス」 となって大人になってからもあとを引いたり拗らせてしまう場合もあります。
絶対コミュ力と相対コミュ力、運不運も結構あったり
仮に自分が重度のコミュ障であっても、周囲にコミュ強やコミュオバが何人かいれば、自分が相手にとって特別の存在にはなれなかったとしても、強い孤独感に苛まれるほどの寂しさや疎外感を味わうことはないかも知れません。 また仲間意識の強いグループに属していれば、仲間の一人一人と深く付き合うことができなくても、変に出過ぎさえしなければ全体の一部、グル友 として楽しく過ごせるかもしれません。
逆に云えば、いくら自分がごく 普通 のコミュ力を持っていたとしても、周囲がコミュ障だらけなら雑談したり友達を作ることもできないでしょう。 そもそもコミュ力自体、お互いの相性の部分が大きく、合わない相手にどれだけ高度なコミュニケーション能力を発揮しても、そもそもこちらに興味も関心もないので空振りするだけでしょう。 しかしそれが分からないと自らのコミュ障を疑う状況になります。
その意味では医学用語としてのコミュニケーション障害はともかく、俗語としてのコミュ障には相対的かつ結果論的なものが少なくないと考えることもできます。 少々 無口・寡黙 で人見知りでも、あるいは空気が読めずに空回りしがちな早口おしゃべり魔でも、周囲のコミュ強が 支えになって くれて、自らのコミュ障に深刻に向き合わずに済んでいる人もいます。 それはとても幸運なことでしょう。
とはいえ、コミュ強が大勢いる中でも常に浮いてしまうような人もいますから、こうなると周囲からどうこうすることもできず、中々辛い状況もあります。 その場合、算数の掛け算における0が 概念 として分かりやすいかもしれません。 コミュ力が1の人でもそばにコミュ力が3の人がいれば、1x3で3の状態に持って行けます。 3と3がいれば9にもなります。 しかし0の人がいると、相手がどんなにコミュ強で5や10の力を持っていても、x0で重苦しい沈黙が流れる0の状態になってしまうでしょう。 こうした絶対的コミュ障はお通夜マンとか空気クラッシャーなどと呼ばれたりもします。
一般に脳のうちコミュニケーション能力や社会性に強く関係している部位として知られるものに前頭前野があります。 脳の外的刺激による発達や成熟は生まれてからすぐに始まりますが、前頭前野はあらゆる部位のうちでももっとも遅く成熟する部位とされ、小学生から25歳くらいにかけて成長・発達・成熟していきます。 中でももっとも活発に成長するのは10代の頃であり、この頃に引きこもりなどにより対人・対社会的な刺激が少ないと、その後にも深刻な影響を与えてしまうと考えられています。 また遺伝の影響も比較的強く出るともされます。
コミュニケーション自体は脳の成熟や性格の問題が小さくないものの、ある程度は技術でカバーできる余地があります。 人間関係のあれこれで技術やテクニック、ノウハウがどうこうというのも、それはそれで打算的で不誠実な感じがしますが、かなりの部分は慣れの問題でもあるので、いきなりクラスメイトや同僚とフランクな話がしづらいのなら、コンビニのレジでありがとうを言ってみる、ちょっとした挨拶程度は必ずするように心がける、仏頂面を避けなるべく笑顔を作る、興味がない話でもちゃんと聞く姿勢は持つようにするなど、口から空気を出したり相手のそれを受け入れる姿勢を示す訓練はした方が良いでしょう。 それ以外の要素は前述の通り、本人の努力でどうこうできるものではないからです。
おおむね人間は、人の話を聞くより自分の話を聞いてもらう方が嬉しく感じるものです。 また会話が弾んだり場が盛り上がるのは、多くの場合で話し手側ではなく聞き手側の態度やコミュニケーション能力によるところが大きいでしょう (ネットでは人気のある 配信者 のように、周囲が無反応でも延々と面白い話をし続けられる化け物も結構いますけど)。 口下手なら、相手の話を遮らず、徹底して話を聞くという手段だってあります。 むしろ無口・寡黙な人より、空気が読めず他人の話を聞かずに余計な一言だけは多いみたいな人の方が、より深刻なコミュ障として他者から扱われるものでしょう。 多くの人から愛されるのは、面白い話ができる人より、人の話をきちんと聞いてくれる人だったりもしがちです。
実際のところコミュ障の原因は話し方などではなく考え方、それも相手の反応を悪い方へ悪い方へと考えすぎてしまったり、極端なほどの自己肯定感の低さやコンプレックスにあったりするものです。 喋る喋らない以前にその場の他の人との認知があまりに異なっているため意思疎通が阻害されるパターンです。 その原因は繰り返しになりますが本人にある場合は少なく、環境 に大きく左右されるもので、ほとんど単なる運だけの話です。 ほんの一人だけいじめっ子がいて、そいつに脳の成熟期に目をつけられたみたいな、交通事故なみの 不運 が引き金になっていることも少なくありません。 このあたりは運や環境に恵まれていてもそうでなくても、ある程度の年齢なると理解できたり開き直ったりもできますが、子供や若い頃は自分にその原因を求めがちです。
一昔前と違い、現在は不登校とかコミュ障的なあれこれに社会的な理解は高まっていると思います。 2010年代前後あたりからはマンガやアニメなどでも自虐・自嘲気味なギャグとしてコミュ障な キャラ を積極的に扱う作品などもたくさん出てきて笑いとともに共感を集めるようにもなっています。 しかしそれが残酷な子供社会で 共有 されることはありません。 逃げ場をなるべく早くどう作るか、周囲が作ってくれなければ一時的にでも自分でどう逃げて立て直せるかが重要かもしれません。 とことんまで疲弊すると逃げる事すらできなくなったりしますから。 また本来は、いじめられっ子を逃がすのではなく、いじめっ子をどこかに隔離し更生させるべきなのは云うまでもありません。
本来は医学的な言葉ながら、俗語化する中で雑な扱いに
「コミュニケーション障害」 という言葉自体については、アメリカ精神医学会の 「DSM-5」 における医学的な分類のひとつで、身体的・神経学的な障害の有無を問わず、もっぱら言葉を扱うことが困難となる疾患を 「コミュニケーション障害群」 としてまとめたものです。 明瞭な音声・発音に困難が生じる音声機能障害や、適切な表現や言葉の理解に困難が生じる言語機能障害といった障害を、言語症や語音症、吃音 (小児期発症流暢症) など5つにまとめて1つにしたものとなっています。
本来は医学用語ですが、「鬱」 や 「自閉症」 といった様々な病名や症状・障害名なども俗語化する中、コミュニケーション障害もコミュ障と略され、主に 2ちゃんねる などの 掲示板 で 「他人とまともに話ができないやつ」「何を言っているかわからない」 といった意味の他者への罵倒、及び 「他人とどう接していいかわからない」「何を話していいかわからない」「どうしていつも友達ができないんだ…」 といった自称でも使われるようになっています。
コミュ障が広く使われるようになる前は、軽いものは口下手や人見知り、重いものは自閉症とか対人恐怖症という呼び方が多かった気もしますが (いずれも本来の言葉の意味とはかなり変わっている)、前後して豊かな交友関係を持つ人を指すリア充とその派生語 (非リア充 ほか) が話題となる中、様々な言葉が登場。 何となく医学的根拠がありそうで自閉症の要素も含めつつ自閉症よりは字面が軽く差別的 ニュアンス も薄く見えるコミュニケーション障害が、さらにコミュ障と略されて使いやすさから大流行することになっています。
2000年代中頃から徐々に広まり、後半になって ツイッター などの SNS でも用いられるようになると急速に広がり、特定のネットコミュニティで使われるネットスラングというよりは、広く若者言葉の一つとなったといって良いでしょう (その後一部の表現は状況ごとに細分化され、発達障害 (とくに ADHD (注意欠陥・多動性障害) などへの言い換えも進んでいます)。
なおネットスラングや俗語的な表現はともかく、コミュ障と呼ばれる状態の原因がこれら発達障害に起因しているケースは実際に多いため、どうしても生き辛いと感じるならば、医療機関などで診断を受けても良いでしょう。 自分の状態を客観的に見ることができるようになると、効果的な対策が打てたり、よりはっきりと 「自分のせいではなかった」 と認識でき、生き辛さからくる苦しみがいくばくかは軽減されるかも知れません。