超個人的な見解ですが…「n=1」
「n=1」 とは、統計学において 「標本数が1」 という意味で使われる言葉です。 これが転じて、「固有のケース」「主観的な個人の意見」「客観的な根拠にならない」 といった意味で、ネット ではしばしば揶揄としても使われます。
例えばある1人の男性がラーメンが一番好きな食べ物だったとして、それだけを根拠に 「男性が一番好きな食べものはラーメンだ」 とは云えないでしょう。 それはその人個人の好みの可能性があるからで、ある程度客観的で信頼性の高いデータにするなら、男性1000人とか2000人を調べてみる必要があります。
統計では、ある集団の調査すべき傾向や性質を数量的に明らかにするため、その集団における様々な要素の分布を調べます。 その際、母集団全体の数を大文字の 「N」、そのうち実際に調査した数を小文字の 「n」 であらわします。 例えば1000人の好きな食べ物を調べる時に、全員に調査をするのが難しく2割の200人を調査したなら、母集団数は N=1000、標本数は n=200 となります。
統計はテストの平均点を求めるといった単純なものから、企業の生産性向上のための基礎データとして用いたり、社会制度の設計や人々の意識といった部分まで、広く用いられるものとなります。 全数調査や統計学上意味のある分析に必要なサンプル数調査なら定量的で厳密な結果が出せるでしょう。 またそれに満たない場合でも大雑把な傾向を捉えることはできるかも知れないし、その大雑把さに意味があるかどうかをある程度判断するのに、n=〇は役立ちます。
なおこれが転じて、何らかの意見を述べる際に、自分の個人的な経験や主観のみを根拠とすることを n=1 と呼ぶことがあります。 例えば 「ラーメンは最強の食べ物 (n=1)」 みたいな使い方です。 この場合、「ソースは俺」(自分の経験がソース (情報源) だ」 とか 「私がエビデンス」(自分の経験がエビデンス (根拠) だ」 などと同じ意味になります。 後半の 「私がエビデンス」 は、SNS において主に女性問題などについて使われることが多く、しばしば絵文字のエビ (🦐) が用いられます。
「n=1」 では統計にならず、その結果に意味はない
統計にはできるだけ多くの正確な数値が必要です。 可能であれば母集団全体で調べればもっとも正確な数値が求められますが、1000人程度ならともかく10万人 100万人の規模になると、全数調査をするのは難しくなります。
そこで母集団全体のうちどのくらいを調べれば全体を調べたのと誤差の範囲程度の正確さで数値が求められるのかを考えることになります。 全体から一部を選ぶ時にどういった方法で抽出するのが良いのかとか、あるいはアンケートなら設問はどうするべきなのかを考え、得られた数値からどう推論を展開するのかが初歩的な統計の話となります。 このあたりは、「味噌汁の味は全部飲まなくても一口二口飲めばわかる」 といった例え話でよく表現されます。
逆に、標本があまりに少ないと、その標本特有の携行や性質に全体が引っ張られ、母集団全体の傾向からかけ離れたものになりかねません。 まして標本数がたった1つ、すなわち 「n=1」 では、客観的なデータでもなければ統計的な手法で分析もできず、ほとんど意味のないデータになってしまうでしょう。 前述した 「ソースは俺」「私が 🦐」 です。
その意味のないデータを元に 「母集団の傾向はこうだ」「社会はこうだ」「日本はこうだ」 と分析結果や結論を導いても、「主語が大きすぎる」「単なる個人的な お気持ち」「それってあなたの感想ですよね」 になってしまいます。 原則的には調査する集団の標本数 (サンプル数) や調べる要素が多ければ多いほど確度の高い数値が得られ、より正確な比較検討も行えますが、ある量を超えると結果に大差がなくなりますから、費用対効果 を考え最適なサンプル数を求める必要があります。
なお唯一無二とか空前絶後、無類、並びないといった個性的で絶対的な存在を 「N=1」 と呼ぶこともあります。 この場合は美称として用いられることが多いかもしれません。