男は、女は、近頃の若者は、日本人は…「主語が大きい」
「主語が大きい」(主語がデカい/ 主語デカ) とは、自分の考えやごく狭い身の回りの話を、さも普遍的で一般的なことであるかのように扱って正当化したり責任を回避したり、あるいはごく一部だけに当てはまる話の対象を必要以上に広げ、根拠なく大勢を批判することです。 「主語のデカい人」(後述します) や 「主語 クソ デカ」(単に 「クソデカ」 とも)、あるいは 「太宰メソッド」(太宰治の人間失格の一節より) とも呼びます。
一例としては、「私が思った」 でよいのに、「みんなが思っている」「我々日本人はこう思っている」 と自分とその他大勢の総意を一体化して話したり、あるいは 「非常識な人がいた」 だけでよいのに、「最近の日本人はダメだ」「この国の未来が思いやられる」 と大げさに嘆いてみたりあたりが、その代表的なパターンでしょう。
主語とは、文章において述語 (どうする・どうなっている等の動作・作用・性質) に対し、「何が(誰が)」 に当たる部分です。 例えば 「海が青い」 なら、「海」 が主語になります。 自分がそう思った、そう考えた、あるいはそうなって欲しいと思うのなら、主語は一人称の 「自分」 や 「私」 でよいはずです。 しかし自分の考えを 「誰もがそう思っているはずだ」 と勝手に代弁し、その考えに賛同すべきだと強弁し、あるいは言外にそう 匂わせ るのはいささか無理があるでしょう。
また自分の考えをそのまま表明すると批判される可能性がある場合に、世間や社会、みんな、あるいは普通・常識といったあやふやで大きなくくりを主語として、責任をあいまいにする場合もあります。 誰かにその考えの誤りを指摘されても、「ほかの人はそう思ってると思っただけ」 でごまかしが利くと思っているのかも知れません。
こうした表現を頻繁にする人は、視野が狭く思考が幼稚で自分とその他との境界線があいまいな場合も多く、意図的というよりは無意識に 「自分 = 世の中」「n=1 = 事実」 と考えがちな人も少なくないのでしょう。 個人的な自己弁護を大きなくくりに恣意的に当てはめて正義感に変換したり勘違いしたりします。 また自分の意見に自信はないがプライドだけはあり、多数派であることを強くアピールすることで他人だけでなく自分自身をも納得させて安心感を得たり、自分やその意見を大きく見せたいとの願望があるのではないかと考える人もいます。
なお親が子供を叱るときに、自分の意見として叱るのではなく、「みんな見てるよ」「後ろのおじちゃんに叱られるよ」「世間体が悪い」 など、他人の意見を代弁する形で行うことがありますが、こうしたケースも広義の主語デカ 案件 と考える向きもあるようです。
「これは世間が許さない」 いや、「あなたが許さない」 でしょ?
主語が大きすぎる意見は根拠のない独善的なものになりがちです。 また必要以上に批判や非難の対象を大きくするので、当然ながらそれに当てはまる人も増え、多数から反感を持たれたり反論を招くことになります。 その結果、ネット の世界ではしばしば大きな話題となり (バズる)、内容によっては 炎上 を招いたり 祭り に発展する場合があります。
そうした傾向を逆手に取り、目立ちたい人、構ってちゃんなどが、あえて主語を大きくして刺激的な発言を行い、炎上マーケティング を仕掛ける場合もあります。
いずれにせよ 「男は」「女は」「日本人は」「人間は」 といった意見は、個々人で多様な意見を持っていて、かつそれが容易に可視化されるネットの時代においては、「主語が大きすぎる」 と感じられるケースが多いのでしょう。 また属性や大きすぎる 枠 組みでレッテル貼りをするかのような物言いは、個別のケースや少数意見をないものとして無視し、型にはまった意見、差別や決めつけを助長する 「悪しき言い回し」 の最たるものだとも云え、できる限り避けるよう努力した方が良いのでしょう。
ちなみにこの種の問題でよく内容の一部が 画像 としてあげられる人気 マンガ 「さよなら絶望先生」(講談社/ 久米田康治さん) においては、「自分の意見をみんなの意見のように言う 主語のデカい人」 の例として、「一人しかいないのに 「私たち住民は断固反対するー」 とか!」「全員に聞いたわけでもないのに 「我々都民は我慢の限界」 とか!」 を例として挙げています。
とはいえ、主語はやっぱり大きくなるもの…
主語の大きさが批判される一方で、それならばと話の全てを 「個人の感想」 にしてしまって良いのか、という意見もあります。 テーマ によっては個々人の気持ちや具体的な事柄だけではなく、広く全体を見渡して論じる視点が必要な場合もあるでしょう。 もっともそのような場合は、信頼できる学術論文や調査結果があればそれを参照すればよいだけの話ではあります。 例えば 「統計によれば男性の27%は」 といった言い方なら、別に主語が不必要に大きくはないでしょう。
とはいえ、学術論文や何らかの公的機関や組織の肩書を使って行う発表と、ちょっとした個人の話や 書き込み を同じ レベル で論じるのも違和感があります。 ことさらに 「個人的には」「私の考えでは」 といった前置きを免責として使う場合もありますが、そもそも基本的な話として個人が行うネットの書き込みなどは個人的な意見に決まっているわけで、その都度 「根拠がない」「例外を無視してる」 と批判するのも場合によっては野暮な話なのかもしれません。
また具体的な根拠や調査データがなくとも、実際に大勢の人間が感覚的に認識を 共有 している場合や、その人個人にそうした事例が多かったのだろうと好意的に 解釈 してくれる場合もあります。 例えば 「男はエッチ」 という意見を友人からされたとして、「この人は地球上の男全部が一人残らずエッチだと主張しているのか?」 などと受け取る人はいないでしょうし、「知り合いにたまたまエッチな男が複数いてそう感じたんだな」 程度の話だと理解してくれるでしょう。 ごく限られた範囲の話であれば、そうした感覚や認識の共有にも一定の説得力や意見としての強度が生じる場合だってあるでしょう。
この辺りは、ネットという根拠を探そうと思えば探せなくもなく、また個人的で近親者にのみ伝える与太話のつもりでネットに書き込んでいても、ひとたび 拡散 し大勢に共有された場合には、一定以上の公共性や責任を伴うことがあるのも問題を複雑化させているような気がします。 個人の考えを 「日本人は」 といったくくりで話していてそれが誤っていた場合は、意図的かそうでないかはともかく、「デマやフェイクニュースを流布してるのと変わらないではないか」 との辛辣な意見だってあります。
また主語を大きくすることにより、反感だけでなく本来は無関係な議論や反論を生じさせ、本来のテーマや問題が分からなくなる、議論が深まらないという問題もあります。 例えば 「近所の〇〇というレストランは汚かった」 でいいのに、「日本の飲食店は衛生管理がずさんで汚い」 とまで云ってしまうと、そこから生じる反論や批判は、本来の話から遠く離れたものとなり、とても実りあるものとはならないでしょう。 もちろんネット上の論争に実りなど元から大して期待できやしないだろというのは、その通りではあるのですが。
対義語は 「主語が小さい」 ただし使い方は微妙
なお主語が大きいの対義語は 「主語が小さい」 となりますが、使い方は 「主語が大きい」 と同様、その意見や相手への主語のサイズに対する反論や非難の文脈がほとんどです。
例えば 「日本人男性はみんなスケベ」 という意見に対し、主語が大きいとあえて云わず、「主語が小さい、世界中の男性がみなスケベなのだ」 といった使い方です。 どちらの内容でも、「主語のサイズを問わず取るに足りない意見だ」「どっちにしろお前の意見は間違っている」「それ個人の感想ですよね」 という意味となります。
というか、この主語が大きい項目の解説自体が、主語大きいよね…
ちなみにこの同人用語の基礎知識サイトの内容、筆者 の書く文章などは、主語デカのオンパレードです。 ある用語について、筆者の見聞した範囲でもっとも多い使われ方を 「よく使われているのは」「広く使われているのは」「一般的な意味では」 として解説していますし、おたく やら 腐女子 やらの説明など、筆者の知る範囲内の情報だけで人の傾向をくくって属性分けしていることと同じです。 なるべく客観的で普遍性のある内容にするよう色々調べたり頂いたご意見などを参考にして努力しているつもりではありますが、能力不足もあってとてもとても胸を張れるようなレベルに達していません。
主語を大きくして誇張したり責任回避しているつもりはないのですが、この 「主語が大きい項目」 の説明文の主語の大きさっぷりも合わせ、自分で書いていて自分が苦しくなるような感じの説明文になってしまいました…。 いやほんと、難しいですよね、主語デカって。 十把一絡げ、雑 にひとくくりされてあれこれ云われたくない気持ちはわかりますし。 自省自戒をする一方、他人の主語デカに対しては、「過去に一度も主語を大きくしなかった者だけが主語デカを叩きなさい」 とか、そんな感じでなるべく接したいと思っています。