こんな作品が生まれて人気になるような社会は健全ではない! 「外在批評」
「外在批評」 とは、創作物などを批評する際に、作品 それ自体が持つ内容や 物語 の面白さ、正確さ、技術的な巧拙を分析・評価するのではなく、その作品が生まれた時代的背景や歴史的意義、人々に受け入れられているかどうかといった状況をひとつの社会的現象と見て行う批評のことです。
例えば 軍事 を扱った マンガ や アニメ があったとして、それが大ヒットした場合に 「社会あるいは時代がその作品を求めている」(民衆は軍事や戦争に関する物語を求めている) として右傾化・軍国化する社会現象の一部として見たり、逆にこうした作品によって軍事や戦争が賛美されたり肯定された結果、社会に好戦的な 雰囲気 を醸成し悪影響を及ぼすといった切り口で見ることもあります。
一方で特定の思想を持つ人物が、学者や市民団体の 代表 といった肩書を使い、作中に刀や銃が何回出てきたか、人が何人 死んだ かを粗さがしのように事細かにリストアップし、拡大解釈によって 作者 らの 人格攻撃 まで絡めて口汚く 叩いて いるだけの感想文や誹謗中傷を論評風に表現したものもあります。
自分の意見を他人の作品をダシにして主張する
こうした批評にありがちなのは、「人気マンガに見る〇〇意識」 みたいなものでしょう。 キャッチーで話題になりがちな反面、それだけに人気マンガやアニメ、ゲーム などの コンテンツ が持つ話題性に単に便乗しただけ感も拭えません。 さらにそこに無知からくる見当違い、あるいは結論ありきで身勝手なこじつけの 作品解釈 に基づく自分の思想・信条の宣伝が含まれる場合もあり、近年ではあまり肯定的な批評とは見なされない傾向があります。
「云いたいことがあるなら他人の作品や キャラ をダシに使わず自分の言葉でやれ」「批評や 感想 を装って自説を唱えるな」 は、正しい指摘でしょう。 とくに軍事や政治、思想に関するものや、とりわけ近年はジェンダー・フェミニズム的な観点に立ったそれは鋭く対立しがちで、SNS を中心に、我田引水的なこの手の批評自体が強い批判に 晒され る結果となっています。
社会学者と名乗る人々の雑な批評が批判を浴びる
とりわけ他人の作品を自身の政治的主張に都合が良いように歪めて 雑 に語る人にいわゆる人文系、とりわけ社会学者と称される人々が目立つことから、度々の 炎上 などを通して近年では社会学者自体にも強い批判が向けられるようになっています。 これは彼らが作品に対する批評だけでなく、しばしば作者やその思想、ファン の態度に対しても口汚く 強い言葉 で罵ったり、表現規制やキャンセルを呼びかける攻撃的なものが少なくないからでしょう。
もちろんきちんと調査や分析を行った精密な批評には作品や社会を別の角度から見直すことができるメリットもありますし、特定の作品傾向や論調が世論と相互関係を持って何らかの社会的な運動を喚起したり政治の方向性を決めることもありますから、全てを無駄だと切って捨てるのも誤りでしょう。 論によっては作品を通じて時代を読み解くものとして評価されることだってあります。
ただしそれには、統計学的に意味があり再現性の担保もされた説得力のある調査や、その作品や作品を取り巻くコンテンツ業界への深い理解や造詣も求められるでしょう。 自分にはそう見えたからといって、思い付きや身勝手な お気持ち でこうだと決めつけ、影響力のあるメディアで広めたり政府機関の委員になるなどして国の方針や法律の内容に影響を与えられては困ります。
一般に社会学は、自然科学などと違って再現性が低く研究結果の検証や妥当性の確認が難しいことが多いですし、社会そのものを分析することから、容易に社会運動や政治運動と結びつき、研究者もそうした発言をしがちです。 もちろん学者だからといって社会運動や政治運動をしてはならないわけではありませんし、そもそも社会や政治を動かすのは人間で、そんな人間は矛盾に満ち満ちた感情に突き動かされる存在なので、「感情を排して客観的データだけで判断せよ」 というのも乱暴だし、それが理知的で現実的な考え方だとも思えません。 しかしだからこそ、自らの論を広く受け入れてもらうために、我田引水にならないよう公平で妥当性のある研究デザインや可能な限りの厳密な方法論を用い、結論ありきではない調査や分析の必要性が、より一層強く求められるのでしょう。
学者はそうした手法や能力の発揮を学問や訓練によって獲得した人たちのハズですし、そうでなければ、学者という 「真実を探求する公平な存在」「大学やアカデミックな公の権威」 の皮を被っただけのただの扇動者になってしまいます。 それは社会学者ではないものの、メディアを通じて社会に対する論評を識者として行う精神科医や思想家なども同様です。 自分と意見を異にする相手を精神的異常者だとか時代遅れの差別者だなどと罵倒するだけでは、その職業に対する偏見を助長するだけです。
とくに 「こんな作品の作者は男に決まっている」「この描写には男目線の女性差別的な願望が満ちている」 などと無知からくる謎の エスパー論 を振りかざして口汚く批判したあげく、作者が女性だった、作品採用の責任者も女性だった、その解釈は誤りだと根拠付きで指摘されて スルー を決め込むなどは、およそ学者の取る態度とは思えません。 ポリコレ (社会的公正さ) とか作品とはこうあるべきだみたいな 規範批評 と合わせて語られることも結構ありますが、自分の外在的・社会的な影響を顧みるのはもちろん、他人の社会的公正さや規範を上から目線であれこれ判定する前に、自らのそれを先に熟考すべきでしょう。
文系・理系みたいな雑な分類は避けるべきですが
なおこうしたことから文系・理系でどちらの論に説得力や価値があるか、もっといえばどちらが偉いかみたいな話がありますが、受験生が志望校選びをするならともかく、世の中の人々を文系・理系のたった2つ (あとはせいぜい体育会系を含めて3つ) にするような分類を嬉々として行うのも、それはそれで幼稚な振る舞いでしょう。 文系でも数学的で客観性・合理性のある研究を行う人もいるし、理系でも感情的で主観的な人、熱血的な人はいっぱいいます。
そもそも数学的・合理的な思考だけで生きているなら、日本ではまともな働き口がなく、ろくに飯も食えない可能性がある学者や研究職に身を投じるリスクは取りづらいでしょう。 そこには研究に対する損得勘定を超えた熱い思いがあるはずです。 もっとももしかしたら、マンガやアニメ、あるいは おたく を 叩く ことで食い扶持を得ようという合理的な判断をしているのかもしれませんが。
いずれにせよ、学問の種類によらず、他人を批判するなら根拠を示す、逆に自分も批判に晒される、人格攻撃したら自分にも跳ね返ってくる程度の覚悟や理解力くらいは持っていて欲しいものです。
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