党派性か、ダブスタか 「では〇〇はどうなんですか?」
「では〇〇はどうなんですか?」 とは、ネット においては社会問題、特に偏見や差別、格差といった大切だけれど複雑で センシティブ な問題の話し合いや議論の中で、一方を 強い言葉 で糾弾する側に対して、反対の側が行う反駁や問題提起の常套句、決まり文句のパターンです。 多くの場合、相手の 党派性 や ダブスタ (ダブルスタンダード) を指摘する文脈で行われます。
例えば公正中立で差別や偏見のない平等な社会を目指していると主張する人が、AからBへの差別を厳しく批判しているとします。 ところが世の中には、逆にBからAへの差別だってたくさんあるし、CやDやEからAへの双方向の差別だっていっぱいある。 もしこの人がAからBへの差別のみを批判しその他を無視したり軽視しているなら、公正中立でも平等な社会のためでも何でもなく、単にBの権利拡大や憎いAを貶めるためにAを攻撃していることになります。
もちろん偏見や差別、格差などはあってはならないし、根絶は無理だったり遠い道のりなのだとしても、少しずつでも減らす方向に歩みを進めるべきなのは当然です。 またある思想や運動の中で、とりわけ被害が酷い部分のみを集中的に先んじて批判するのも、戦術や途中経過としてはありかも知れません。 したがって問題提起をする人が公正中立でも何らかの立場にいたとしても、そこに是正すべき差別があるなら声を上げて当然でしょう。
しかしBの立場にいてBの権利拡大、Aの攻撃のみを目指しているのに、それを隠して公正中立のように装うのは、議論やひいては社会運動のやり方において、少なくとも誠実で透明性のある姿勢だとは云えないでしょう。
自分と異なる立場の人間には厳しい条件を課すが、自分に対しては…
一方、ダブスタを指摘する文脈の「では〇〇はどうなんですか?」に対して 「全てに関わるのは無理」「それは〇〇の当事者が声を上げればいい」 と反論する人ももちろんいます。 あるいは 「子供が 「〇〇ちゃんもやってるのに」 と幼稚な責任逃れをしているのと同じだ」「そっちこそどうなんだ主義 だ (詭弁 の一種)」 との反論もよくあるパターンです。
世の中には様々な問題があり、その全てを個々人が網羅的に把握したり何らかのアクションを起こすのは無理です。 しかしこうした反論をする人は、おおむね同じ口で 「知らなかったでは済まされない」「沈黙や無関心や不作為は肯定や 同意 と同じ」「傍観や見て見ぬふりは、偏見や差別・格差構造の維持・再生産を結果的に助けて被害を拡大させている、加害しているのと同じだ」 などと主張しているものです。
「では〇〇はどうなんですか?」 は、「他もやってるのに何でこちらだけ責められるんだ?」 という責任回避の見苦しい詭弁ばかりではなく、社会的正義と公平平等を自称してる相手のダブスタを指摘して、その論や発信者に果たして傾聴すべき価値があるのか、あるいは表には出さない本当の目的はなんなのかを見極めてる部分だってあるのです。
誰かの心の痛みに寄り添い、「痛みの原因にNOの声を即座に上げない」 のが 「沈黙・無関心・不作為は肯定」「傍観や見て見ぬふりは構造の再生産や加害と同じ」 さらには 「想像力の欠如、不勉強、認知の歪み、反知性」「倫理や常識の アップデート 不足」「差別主義者だ」 とまで他人に厳しく問うのなら、「自身は言行も一致してるんですよね」「知らなかった? では今知ったでしょう? 意見は?」 という確認くらいしたくなるでしょう。
全てとは云いませんが、ダブスタを指摘された側の多くが自らの党派性や矛盾を頑なに認めようとしないのは、自称している社会的正義とやらの核心部分が筋の通らない偏った思い込みだったり、別の目的のための飾りだからでしょう (いわゆる ポリシーロンダリング)。
相手の質問に対して具体的な答が出せず、それを隠すために相手の質問を無知から生じたものだと決めつけて 「勉強してください」「とぼけないでください」 などとはぐらかす詭弁は よくあること ですが、奥の奥まで追及されると言い逃れが困難となるためではないか、耳障りの良い公平平等だけをほとんど唯一の根拠にせざるを得ないのではないかとの疑念を生みますし、偽りの公平平等が看破された時点で説得力はなくなってしまうでしょう。
「沈黙は加担と同じ」 と 「無知は罪」「勉強してください」
なお 「沈黙は加担と同じ」 といったフレーズは、アメリカの公民権運動の先駆者でもあるマーティン・ルーサー・キング牧師の 「沈黙は悪の共犯」(「人は発言することのみならず、発言しないということにも責任を持たなければならない」「最大の悲劇は悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である」) から引いたものなのでしょう。 また 「無知は罪」 は一般にソクラテスの言葉として広く知られた概念です。
これらの言葉を組み合わせ、口にしたり文章に書いただけで自分たちがキング牧師やソクラテスの高みに達したかのような陶酔感を覚え、それを社会正義のためではなく、自分が気にくわない相手への攻撃や加害だけに使うのなら、それはとても滑稽で醜い姿でしょう。