失うものが何もなくなると怖いものなし! 「無敵の人」
「無敵の人」 とは、失うものが何もない人、その結果怖いもの知らずで誰も止めることができなくなっている最強な状態の人のことです。 掲示板 2ちゃんねる の 管理人、ひろゆき氏が2008年6月30日に自身の ブログ でそのような状態の人を 「個人的に、こういう人を「無敵の人」と呼んでいたりします」 と呼び、それが話題となったことで広まりました。
ひろゆき氏は 「無敵の人の増加。」 というタイトルの 投稿 において、「逮捕されると、職を失ったり、社会的信用が下がったりします。」 との前提を冒頭に記した上で、しかし 「無職で社会的信用が皆無の人にとっては逮捕というのは、なんのリスクにもならない」 と述べます。 その後花輪和一さんの マンガ 「刑務所の中」 を引き合いに出しながら、「刑罰がリスクだと思わない人たちというのが存在」 すると続け、こうした人が社会を不安に陥れ逮捕されるような事件を起こすのを止める手立てはないし、意味のある罰を与えるのも無理だとして、「無敵の人」 と呼ぶとしています。
一般に無敵と云えば強者の意味で使われますが、この場合は弱者が、自らを弱者たらしめている社会的な価値や規範から弾かれり背を向けた結果、手に負えない モンスター になってしまうという意味になります。
自暴自棄の言い換えとしての 「無敵の人」
一般的に人は、倫理やモラルの他、社会的信用や世間体、あるいは家族や友人との人間関係や、大切にしているもの、財産などを多かれ少なかれ持っていて、それらを失いたくないから仮に魔が差そうとしても悪事を自制したり感情的な行動に対する抑止が働くものでしょう。 またそもそも、そうしたものがある 「恵まれた状況」 にあれば、経済的理由から悪事を働こうとは思わなかったり、気持ちにゆとりがあり直情的に行動することも少ないかもしれません。
しかし無職だったり元々社会の 底辺 と思われがちなポジションに居て経済的ゆとりや信用、人間関係や世間体も持ち合わせていなければ、自制や抑止も働かないし、モラルも精神的な余裕も失いがちでしょうでしょう。 昔からある言葉なら 「自暴自棄」「やけくそ」「死なばもろとも、道連れだ」 みたいな状態です。 また本人のモラルや人間関係によっては、逮捕や刑罰、犯罪行為がある種の勲章や武勇伝になる場合すらあるでしょう。
もちろん無職でも社会の底辺であっても必ずしも悪事に手を染めるわけではなく、貧しいながらも自らのプライドを保ち歯を食いしばって踏みとどまる人がほとんどです。 しかし経済が悪化し 「お金や仕事や信用の有無」「人間関係やコミュニケーション能力のあるなし」 によってダイレクトに 「勝ち組」「負け組」 に分けられ、負け組に対する自己責任論による遠慮のない罵倒が当たり前の世相にあっては、むしろ社会的信用やお金がある、豊かな人間関係があるといった 「勝ち組の価値観」 に背を向け、彼らのルール (法律や社会規範、常識) を踏みにじっても構わないと考える人がごくわずかながら一定数出ても仕方ない状況もあるのでしょう。
通り魔とか無差別殺人みたいな重大な犯罪ならともかく、ネット で犯罪予告や名誉棄損・誹謗中傷を繰り返す人の中には何ら法的な措置もされず、本人も開示請求や民事・刑事の裁判を恐れておらず 「やれるもんならやってみろ」 みたいな態度で長期に渡って迷惑をかけ続けているような人もいます。 本心からそう思ってるのか、どうせ訴えないだろうと高を括っているのか、単なる開き直りの強がりなのかはわかりませんが、いずれにせよ後戻りできない状況になれば、結果的に言行が一致することもあるのでしょう。 仮に裁判を起こして勝ったところでお金がない人からお金を取ることはできませんし、公的年金や生活保護は差し押さえもできません。
法律や社会が自分を守ってくれないなら、こちらも守る必要はないという考え方
法律や社会規範、常識は、それによって自分も守られるというメリットがあるからこそ、従ったり守ったりもしたくなるものでしょう。 お互い様の精神ですね。 しかしそれらが自分をなんら守ってくれず、それどころか自らを追い詰め痛めつけるだけの存在だと感じられてしまったら、尊重する必要など全くないと考える人だって出るのでしょう。 また人命も、自分の命や身近な人の命が大切に思えるからこそ、それ以外の人の命も大切に思える部分があるでしょう。 お前が死んだって別にどうでもいいと罵倒され屈折してしまった人や、自分が死んだって殺されたって構わないと思う人に、他人の命を尊重せよと説いても空しいのかも知れません。
このような状況は変えなければなりませんが、政治や経済、あるいは福祉やものの考え方が思うように変えられるわけもなく、また個々人が抱える悩みや不安、あるいは闇を、外部からどうこうするのにも限界があります。 こうした状況が存在することを認めたところで、その先どうやって解決すべきなのか答えは見つからず、どうにも閉塞感があるのが切ないところです。
同じ 「失うものは何もない」 状態でも、昭和の時代 ならば 「裸一貫」「落ちるところまで落ちたら後は上に上がるだけ」 みたいな ポジティブ な高揚感も一面ではあったと思うのですが、こればかりは右肩上がりの高度経済成長期の明るい 雰囲気 とか、戦争で無一文になった人が少なくなかったという日本人としての記憶に基づく連帯感など、今とはまた異なる世相のなせる業でもあったのでしょうか (まぁ凶悪犯罪も今とは比べものにならないくらい多かったので、これといった罪を犯さずつましく暮らす現代の無敵の人の品格や忍耐力は、逆に賞賛して余りあると思いますけれど)。
一方、ある 属性 や条件で人をくくって無敵の人といったラベリングをすることには、もちろん否定的意見もあります。 発信力の極めて強い人物の言葉であり、流行語ともなっているため、その範疇に含まれると自覚的な人がこうした表現に引っ張られたり、無敵の人ラベリングで存在を認められたような気になったり、ある意味で自分や自分の考え、行動に対する免責に感じてしまうのではとの危惧もあります。