自分や仲間以外はみんな無知蒙昧で怠け者の愚か者! 「愚民」
「愚民」 とは、無知で怠惰で愚かな人民、民衆、庶民のことです。 とくに政治的な分野で、為政者やその統治政策に対して疑ったり改善を求めることなく、ただひたすら従順・盲目的に従う人々を指して使うことが多いでしょう。 別の言い方をすると、統治者にとって都合の良い人民ということになります。 対義語は一般に良民、あるいは選民となります。 また統治者が自分に都合の良い政治を行うために人民を愚かな状態にしたり止め置く施策は愚民化、逆は啓蒙と呼びます。
ただし現在の日本において、本来の意味で愚民を使うケースはほとんどなく、もっぱら特定の政治勢力が、自分たちの主張に賛同しない人、反対勢力、あるいは政治問題や社会問題などに無関心な人々を非難・罵倒するための言葉になっているといって差し支えないでしょう。 似た ニュアンス の言葉に、ネットスラング としての 情弱 (情報弱者) があります。 また 陰謀論 やそれに近い自己啓発系の活動に染まっている人が、自分たちの論を支持しない人々を罵倒するためにもよく使われます。 この場合の対義語は目覚めた人 (覚醒者) とか 意識高い系 などと呼びます。
陰謀論だろうが政治的・社会的な議論だろうが、どんな意見や立場にも異なる意見や立場、鋭く対立する存在が必ずいます (陰謀論はともかく、政治的・社会的な正しさとか 正義 などは、人によって違うので当然です)。 一方で政治的・社会的な議論は、最終的には多数決といった 「どれだけ 同意 や賛同者を集められるか」 の話になるので、異なる立場や対立する立場の人をいかにして自分たちの支持者にするかの戦いでもあります。
自分たちが少数派だったり論争や選挙で負けたからと云って、その原因を 「相手が愚民だからだ」「大衆は無知蒙昧な愚者だからだ」 と決めつけては、子供のケンカでお互いをバカだアホだと罵っているのと同じで幼稚すぎる振る舞いです。 また愚民扱いされた人々は不快感やより一層の反発を覚え、主張に耳を貸してくれることも、理解してくれることもないでしょう。
そのようなことは誰だって簡単に理解できるので、それでもなお 「愚民だ」 などと批判に没頭するのは、もはや支持者を増やすことや問題を解決し理想を実現することが目的なのではなく、仲間内でお互いを肯定し合い、選ばれた自分たち以外は全て愚かな敵だと決めつけて気持ちよくなりたいだけなのでしょう。 この場合、敵を激しく非難すればするほど仲間から高く評価されますから、ほとんど誹謗中傷の品評会のようになります。 こうした仲間内の評価だけを価値あるものとして、考え方や表現がどんどんエスカレート・過激化・先鋭化することは エコーチェンバー と呼びます。
自分たち以外が全て愚か者に見えるなら、逆の可能性を疑う方が合理的
マンガ や アニメ の悪役や、どこかの独裁国家の指導者ならともかく、民主主義の国で政治問題や社会問題に取り組む人たちがもっともやってはいけないのが反対論者や中立的立場の人たちの愚民扱いであり、それが理解できずに愚民などという対話を拒否する 強い言葉 を安易に使うという点で、民主主義や対話が理解できない独善的で 他責的 な人たちだと云えるでしょう。 正直、相手を愚民扱いする人にまともな人を見たことがなく、同じように子供じみた幼稚な反論をするなら、「愚民だって言った方こそ愚民〜」「愚民が見る〜ブタのケツ〜」 あたりが、ふさわしい表現かも知れません。
自分たちの意見に反する批判を中傷や ヘイト 呼ばわりし、相手にされずにいなされることを冷笑や反知性だなどと決めつけて相手を愚民と呼べば、自分たちだけが正しく相手が間違っているとの自尊心が満たされるのかもしれません。 しかしそれでは共感や支持も広がらず、先細りする一方でしょう。 ましてそれを陰謀論者が口にするならまだしも、弱者に寄り添い対話によって社会をより良くしようと活動していると自称する人たちがするのでは、そもそもの存在価値や標榜する目的の真偽さえ疑われる行為でしょう。
もちろん、隠された真実を見抜く目を持つ人は少数ですし、誰かに扇動されて大衆が愚かな判断を行って社会が混乱した例は、歴史上に無数にあります。 大衆や多数派が常に正しいわけではありません。 また世の中といったマクロな視点ではなく、個々人のつながりのようなミクロな視点で見ると、知能や知識があまりに隔たっていて話が通じず、「バカに何を言っても無駄だ」 と匙を投げたくなることもあるでしょう。 しかし自分たち以外の全ての人々がみな無知蒙昧な愚民に見えるのなら、自分の 認知 の歪みを疑った方が、合理的な場合も多いでしょう。