2012年〜2013年にかけ大きく広まった 「ヘイトスピーチ」
「ヘイトスピーチ」(Hate Speech) とは、ヘイト (憎しみ) とあるように、特定対象に向けた強い怒りや憎悪、ネガティブ な内容を伴う会話や表現、あるいはそうした怒りや憎しみを 煽る ような表現のことです。 単に憎悪表現、あるいは略してヘスピと呼ぶ場合もあります。
この言葉が指し示す憎しみの対象は、過去においては様々で、日本においては国や企業、人種や民族など不特定多数が相手の場合もあれば、特定個人を名指しして侮蔑・罵倒・誹謗中傷するような時にも比較的広く使われていました。 また多くの場合で ネット での匿名多数によるバッシング 書き込み、炎上 の際の罵詈雑言などを指すケースが多かったものです。
ただし近年、ヘイトスピーチという言葉がことさらに使われ、かつ社会的な問題や話題になるケースでは、多数派から少数派に対し、人種や民族、性別、宗教、年齢、性的指向、出身地や職業などといった人の属性的な広いくくりで、不特定多数に向かって行う差別的あるいは攻撃的な内容を含んだものを指すケースが増加しています。
2013年に大きな騒動となった新大久保のデモ |
こうしたケースが増えてきた理由としては、特定の個人に向けたヘイト表現が名誉毀損や脅迫として取り締まったりやめさせることが法的にある程度可能であるのに対し、不特定多数が相手の場合にはそれが難しく、結果的にそれが常態化して表現がエスカレートするなど、しばしば突出して目立つ存在になっているからでしょう。
ネットの 掲示板 などで頻出し、「みんな使ってるから」 といった意識でさらに広がり、一方で使われすぎて個々の言葉は陳腐化し、「もっと過激な言葉にしないと怒りが伝わらない」 と、さらに表現がエスカレートしてしまうサイクルにも陥りがちとなります。
また不特定多数を対象とし、エスカレートしがちなことから、単なる批判という 枠 を飛び越えて、激しい人種差別・民族差別 (レイシズム) や排外主義と容易に結びつき一体化し易い、あるいは逆に、批判する側から便利なレッテル貼りとして差別と結び付けられやすいという特徴があります。 これは一般的に人権問題として扱うべき テーマ になりますから、かくしてマスメディアなどの扱いも多くなり、ますます言葉が一人歩きする傾向を併せ持っているといって良いでしょう。
こうした経緯もあり、2013年になってからは、人種差別・民族差別のための口汚い罵倒や誹謗中傷、ネットでの書き込みや街頭デモなどでのスローガンやシュプレヒコールのみを批判的に指し示す用語として、もっぱら使われています。 またそれに伴い、こうした内容の主張を繰り返し行う人を、とくにヘイトスピーカーと呼ぶことも、定着しつつあります。
反中・反韓、嫌中・嫌韓の罵倒のみを指すようになったヘイトスピーチ
ヘイトスピーチという 概念 や言葉はアメリカで生まれ、その後ヨーロッパでも使われるようになっています。 1965年、第20回国連総会において採択され、1969年に発効した人種差別撤廃条約 (日本は1995年に加入) の第4条には、あらゆる差別を禁ずる法律を各国に制定するよう求め、イギリスやフランス、ドイツ、カナダなどでは公の場や不特定多数に向けた憎悪表現に対しては、法的な規制がされています。
この言葉が日本に入ってきて、さらに広く使われるようになったのはそれからずっと後ですが、前述した通り当初は人種・民族差別表現と同一視される言葉としては必ずしも使われておらず、ネットでの炎上の際の不特定多数から特定個人への激しい批判や罵倒の書き込み、個人間の怒りに任せた罵倒の応酬などでも、誹謗中傷や罵詈雑言の単なる言い換えとして使われていたケースがありました。 つまり直接的なレイシズムの意図などを必ずしも含まない、ごくシンプルで直訳的な 「憎しみの表現」「素朴な呪訴」 という意味で使われる言葉でもあったのですね。
しかしその後、主にヨーロッパでの反移民デモといった外国人排斥運動、特定民族への罵倒・侮蔑表現などを直接的にあらわす言葉として、もっぱらマスコミや人権団体・有識者らによって日本でも盛んに紹介され、反中国、反韓国・反北朝鮮といった考え (いわゆる 特定アジア を嫌う感情) を持つ人達の街頭デモにおける過激なスローガンやシュプレヒコールを、この言い回しで具体的かつ 限定的 に指し示すケースが増加。
2013年になってからは、「憎しみのこもった民族差別表現」(とくに反韓・反中表現) の意味にのみ、限定されつつあるといって良いでしょう。 とりわけ同じ時期に週末を中心に度々行われている東京・新大久保地域 (いわゆるコリア・タウンが存在) での反韓・嫌韓デモやお散歩の参加者らによるスローガンやシュプレヒコール、及びこれに関連する反韓・嫌韓的な言質全般を指すものとして、主にマスコミ報道の中で多用され、広くネットでも使われるようになりました。
大手マスコミなどで盛んに使われるようになった 「ヘイトスピーチ」
デモとその反対派、警察などによって騒然と する大久保通り (東京都道433号) |
新大久保の反韓・嫌韓デモがこれほど大手マスコミも巻き込んだ騒動となっているのは、人通りの多い繁華街で週末に定期的に行われていることから、とても目につきやすいという点があります。
この地域でデモが起こっているのは、新大久保に韓国にまつわるお店が多く集まっていることが理由ですが、在日韓国大使館や北朝鮮関係施設への直接的なデモ活動が当局により大幅に制限されており、象徴的なデモの行き場が失われていることも理由にはあるのでしょう。
またこの地域のデモの全てで行われていた訳ではありませんが、一部で 「出ていけ」「死ね」「殺せ」 といったかなり激しいスローガンが叫ばれたり、逆にこのデモに反対する立場の人たち (カウンター) が抗議活動として同じ レベル の罵声をデモ隊に浴びせ 現場 が騒然とするなど、事態が大きくなっている点もあります。 こうした状況を踏まえ、人権問題などに言及するケースが多い有識者らが、この時期にメディアを通じて度々問題提起したことも言葉の定着に大きな役割を果たしました。
こうしたデモは2006年頃から規模を拡大させながら全国で不定期に行われ、その様子を撮影した動画が 動画共有サイト で配信されるなど、かねてから一定の存在感を持っていました。 それが新大久保のデモをキッカケとして、市民の呼びかけに応じる形で著名人が反対するメッセージを発信したり、一部政治家やメディアが 「こうした表現は 表現の自由 で守るに値しない」 とデモの法的規制を訴えたり、さらには政治家がデモの法規制を求めることに反対する市民から反論が寄せられるなどしたのが、この2013年はじめの出来事だったのでした。
ヘイトスピーチという用語と、それを巡る批判と論争
対立軸を中国や韓国・北朝鮮や、その在日外国人とした場合でも、あるいはそうでない場合でも、日本のほとんどの市民や 一般人 は、こうした過激で口汚い表現には嫌悪感や拒否反応を示すでしょう。
とくにこうした活動を行う人達 (保守的な人たち、乱暴に云えば右の人たちの一部) が、日本の伝統や文化・美徳・名誉を尊重する立場にもしばしば立っていることから、日本人の品位を貶める行為だとして、同じか似た立場の人たちからも、時として痛烈な批判を招くことにもなっています。
こうした過激なデモは、愛国無罪 を合言葉に、数年おきに大騒ぎとなる中国や韓国・北朝鮮で行われている過激な反日デモや暴動、差別的言動に対する当てこすりの パロディ、意趣返し、カウンターとしての意味をとても強く持っています。 相手が個々人を対象とした批判をせず、ひとくくりに 「日本人は反省しろ」 と罵詈雑言でしばしば主張するので、その裏返しとしての意義もあるのですね。 しかしそれを理解しある程度の共感を示す人たちからも、なお 「相手と同じレベルに落ちてどうする」 との批判が当然ながらなされています。
高まる批判や、「むしろ反対陣営を利するだけだ」「こうした表現が蔓延すると、国や行政が言論や表現の規制を行う口実にされてしまう、結局は自分の首を締める行為なのだ」 との意見もあり、しばらくすると 「殺せ」 といった極端なスローガンは影を潜め、ほとんど聞かれることはなくなっていますが、基本的には様々な考えを持った個人がネットを通じて自由意志で集った流れでもあり、過激な主張をする人が今後現れて再燃する可能性もあるでしょう。
またメディアや一部の識者などは、そうした過激な表現が影を潜めた後も、繰り返し 「デモでは死ね、殺せといった叫び声」 と、それが現在進行形であるかのように伝えていますが、後にはヘイトスピーチ反対派の方が、むしろ口汚く激しい罵り方をエスカレートさせている現実もあります (もちろんこちらも、ごくごく一部での話ですが)。
一方的なヘイトスピーチ批判に反対する意見も噴出
一方で、こうした人たちとは反対の立場 (革新的、リベラル、乱暴に云えば左の人たちの一部) にあってヘイトスピーチを批判する人たちが、過去の中国や韓国、北朝鮮の反日デモや暴動における日本人差別表現に対して無関心、あるいは一定の理解を示したり同情を寄せていたこと、過去・現在の差別表現どころか実力行使や暴力をすら伴う国内外の反日デモ、反米デモは見て見ぬふりをするか、逆に極めて好意的であることに対し、「単なるおためごかしのご都合主義だ」「ダブルスタンダード ではないか」 との批判もあります。
日中・日韓の関係を見ると、日本の人権団体や平和団体、マスコミは、中国や韓国の感情的な反日デモを民意の現れだとし、それを根拠に日本側に配慮や譲歩を求める論説を行っていたケースが少なくなかった過去があります。 「日本の国旗を燃やしながら日本人を殺せと叫んできた中国や韓国のデモや暴動に対し、各種団体や有識者・マスコミは、日本側こそが配慮しろ、歴史を直視せよとずっと唱えていたではないか」 との批判もあります。
また反中・反韓、反マスコミの意見を持つ人達を 「ネトウヨ」 とひとくくりにし、「他者とコミュニケーションが取れない社会の底辺層だ」「匿名で文句を云うことしかできない連中だ」 などと差別的に侮蔑・罵倒していた人たちが、公平な人権意識からのみ、ヘイトスピーチを批判しているとは考えがたいとの意見もあります。
そもそも 「ネトウヨは低学歴、非正規や ニート、引きこもり の社会の底辺層」「ごく一部の 承認欲求 を持つ跳ねっ返り」 などと属性のみで個々の人間を一括りにして全体を批判するというのは、それが真実であれ誤解であれ、彼ら自身が批判しているヘイトスピーチや差別そのものの発想と構造でしょう。 またそれがもしも事実であるなら、社会的な弱者、少数派の権利を擁護すると唱えている自分たちこそ、真っ先に対話を求め、あるいは手を差し伸べてしかるべきでしょう。 それをせず、議論ではなく法律で規制しろ、警察や公安が摘発しろなどと主張するのは、それまでの主張と整合性が取れません。
もっとも、人を属性でまとめたり表現するというのは便利ですし簡単なので、誰でもつい行いがちなことではあります。 とくに社会で起こっている様々な現象を考えたり評するとき、ある一定の属性を持つ人たちをひとくくりにすることを避けるのは、ほとんど無理でしょう。 そこに憎しみや偏見はないのか、結論ありきで見たり考えてないかを、自分の中にある差別感情や偏見を見据えた上で、誠実に考えてみる必要はあるでしょう。
正直、筆者 だって偉そうなことを云える立場では全くありません。 この項目の考察や文章においてすら、「右寄りの人」「左寄りの人」 といったくくりを用いないと思考が止まってしまう程度のレベルです。 ただだからこそ、自分こそは正義の立場にあって他者を一方的に絶対悪かのように批判する人たちには共感ができませんし、そうした 「振り切れた」 人たちに対する不快や漠然とした不信は、感じている人が少なくないのではないでしょうか。、
ともあれ、ヘイトスピーチという言葉は 2013年に入ってからは急速に広がり、すっかりある種の ネットスラング のような扱いにもなっています。