憲法によって保障された、日本国民の基本的人権の1つです
「表現の自由」 とは、日本国憲法第3章 「国民の権利及び義務」 の第21条によって保障された、日本国民全てが持っている基本的人権のひとつです。 日本国に住む日本人はこの権利を持ち、また国から一切の侵害をされず、誰でもが平等に享受できるとうたわれています。
日本国憲法第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
なおこれらの権利、基本的人権は自然発生するものですが、しかしただ漠然とそこにあるのではなく、それを保持するための努力を 「責任」 として、国民に科しています (ただし国が国民に科しているわけではないし、義務でもない)。
日本国憲法第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
なぜ表現の自由が大切なのか
なぜ 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」 が大切なのでしょうか。
それはこれらが 「民主主義の根本」「民主主義そのもの」 だからです。 民主主義国家では、政治は国民の意見、具体的には選挙による意思表示によって行われます。 正しい選挙のためには、正しい情報がなくてはなりません。 そして正しい情報とは、表現の自由がなくては発信できない、得られないものなんですね。
政治家は国民の代表とはいうものの… |
「正しい」 といっても、その判断基準や価値観は、人によって、考え方によって様々です。 ある人にとっては正しくても、ある人にとっては正しくないかも知れません。
しかし、ある人にとって正しくないものを 「検閲」 して消してしまっては、それとは別の考えを持つ人の 「正しさ」 は存在すらしないことになってしまいます。 あるいは 「存在してはいけない意見だ」「存在してはいけない人物だ」 ということにもなってしまいます。
国や権力を持つものが、自分たちの価値基準だけでそうでない意見や思想、言論や情報や集会・デモなどを 「悪いものだ」 と一方的に消してしまったら、国民は自分で何が正しいのか判断することができなくなってしまいます。 その結果どれだけ選挙で勝って 「国民の支持を受けている」「国民の理解を得ている」 といっても、それは嘘となってしまうでしょう。 思想は金太郎飴のように画一的、全体的になってゆき、つまりは、多様な意見を認める民主主義が機能しなくなってしまうのです。
民主主義が機能しなくなる、すなわち言論や話し合いで政治を批判したり支持したり選んだりできなくなるというのは、それ以外の方法、例えば物理的な実力行使である暴力やテロを 「話し合いができない」「問答無用なのだ」 と、結果的に肯定することにも繋がってしまいます。 そもそも言論を腕力であれ権力であれ制度であれ法律であれ一方的に封じるというのは、その時点ですでにそれは 「暴力」 であるのを忘れてはいけません。 これでは、まるで野蛮な中世の時代に逆戻りです。
言論を封じること自体が、すでに暴力
世の中には色々な考え方の人がいますし、中には自分には全く理解できない、あるいは社会的に見て批判されても仕方がないような醜悪な意見や表現もあります。 また言論や表現が暴力そのものの力を持ったり、一見言論や表現の形を取りながら、実際はそうではないもの、例えばあからさまな嘘、捏造、中傷、冷やかしなど、およそ言論などと呼べないようなただの文字・記号の羅列、口から出てくる単なる空気の音もあります。
しかしそれは国民が、あるいは子の親や言論人、表現者が、自らの見識と良心に従って選び、また律し、言論によってそのつど正してゆくべきもので、国や法律が力ずくで押さえつけるべきものではないのです (こちらは憲法19条 (思想信条の自由) によって保障されています)。
世の中には守るべき価値のあるものと、そうでない無価値なものが確かにあります (人によって違う)。 しかし表現の自由では、価値のあるもの、ないもの、その全てを国や権力は保護すべきであって、またその価値判断を自らが行うべきではないのです。 なぜならそれは、最終的には 「国や権力による価値観の一方的な押し付け」「全体主義」 へとつながる危険な考え方だからです。 問題のある表現には、法や罰則、暴力などではなく、個別に同じ言論で対するべき、議論や話し合いで解決すべきなのです。
自由だからといって、何をやってもいいって事ではありません、しかし
規制に反対する人たちが 「国や自治体は表現の自由を守れ」 を口にすると、規制に賛成する人たちが、「自由は何をやってもいいってことじゃないぞ」 と反論します。 これは物事の本質や憲法の根本を捉えておらず、意図的なのか勘違いなのかはともかく、論点をズラした見苦しい反論です。
確かに表現の自由は何をやってもいいという事ではありませんが、どこまでやって良くてどこまでやってはダメなのかは、国民個々人がそれぞれの良心や責任によって考え、選び、心がけ、判断し、そして実行することであって、それを国や時の公権力が勝手に法律や基準を作って行うのがダメだと規制反対派は言っているのです。 そしてそれは、憲法に書かれた国が国民に保障すべき当たり前の権利なのです。
また 「公共の福祉に反すること、多くの人が不快感を覚え忌み嫌うような表現は控えるべきで、無制限に認めるような自由などない」 という意見もありますが、これも誤りです。 そもそも公共の福祉などは個々人が判断すべきことで、誰かが勝手に 「この表現は公共の福祉に反する」 などと決めつけて規制すべきものではありませんし、多くの人、多数派の人たちから支持されない表現、数の力に押しつぶされそうになる少数派の表現をこそしっかり守るために、表現の自由はあるのです。
権利と義務とは、「国民の権利は、国が守る義務を負う」 という意味
憲法は、原則として主権者たる国民を、国の権力や、時として生じる横暴から守るためにあるのです。 また基本的人権には、対価、もしくは条件 (トレードオフ) としての義務などありません。
憲法で云う 「権利と義務」 は、「国民の権利は、国が守る義務を負う」 という意味です。 国が国民を縛ったり、政府が国民に義務を科すためにあるのではありません (義務を果たさないと権利 (基本的人権) が与えられないなどという意見は、そもそも憲法や立憲政治の否定です)。
表現の自由は、現代にあっても、あくまで 「勝ち取るもの」 なんですね
前述した通りこの憲法の第12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」 とあります。 表現の自由とは、国民が生まれながらに持っている天賦の人権として、国が国民に対して保障するもの、国が守るべきものなのは当然ですが、それが脅かされた時には、現代にあっても 「あくまで主権者たる国民の努力により守り、また勝ち取るもの」 なんですね (ただし国民は憲法尊重擁護義務 (第99条) からも除外されているので、そのままの意味の 「義務」 ではありません)。
不当な言論弾圧、なんら科学的実証的検証のなされていない マンガ や アニメ、ゲーム、小説や ラノベ への規制や焚書まがいの禁止、弾圧の動きには、国民の権利、あるいは本当の意味の義務として、あらゆる手段で反対の声を上げましょう。
私は自分の子供や次の世代が生きてゆく世界が、自分と同じようにマンガやアニメ、ゲームで笑い、泣き、怒り、悲しみ、そして時には興奮できる、そんな世の中であり続けることを強く願い、またそのための努力を善良ないち国民の義務として誠実に継続して行います。 そしてそれが、民主主義と憲法の究極の目的である、個人の尊厳、個人の尊重につながると信じます。
表現ができない人に対する配慮も大切です
なお、世の中には表現ができない人、表現を苦手とする人もいます。 あるいは表現する場所がない人もいます。 現在は ネット などもあり、誰でも自分の意見を公表する手段を持っているとも云えますが、身体的・経済的・生活 環境 上の理由などによってそれが無理だったり大きく制限されたり、あるいはネットやメディアを自由に使いこなしている人と比べてあまりに大きな情報発信力の格差が生じている部分もあるでしょう。
「言論には言論で」(対抗言論) と云われても、表現が得意で発信力もある人と、そうでない人とが対等な立場や条件で議論を交わすのは現実問題として不可能な状況もあります。 また圧倒的な発言力や影響力を持つ民間人や民間企業が誰かの言論を封殺しようとした時、それを保護し守るには憲法だけでは力不足です。
国がやるべきことは表現を規制することなどではなく、表現ができない人をサポートする方向でしょう。 また国民の側もそれを国だけに押し付けるのではなく、誰もが自由に自分の意見や表現を発表できるよう、可能な範囲で助け合うのが大切なのでしょう。 もちろん表現の自由があるだけで世の中が素晴らしいものになるかどうかはまた別の問題です。 表現の自由はそれ自体が目的や素晴らしいものなのではなく、それによって交わされる言論のために必要なだけです。 そしてそれがない状態よりはある状態の方が 「まだマシ」 だから意味や価値があるのです。 言論の自由がない社会がどれほど酷いことになるか、言論が集積された図書館で歴史の本を紐解けば誰でも理解できるはずです。