あいつが悪い、社会が悪い、何でもかんでも人のせい 「他責」
「他責」 とは、何らかの失敗や問題・トラブル が生じたり、ものごとが自分の思うようにならなかった場合などに、その原因や責任を自分以外に 病的 に求める傾向のことです。 独善とセットになる考え方で、他責思考や他責行為と呼びます。 同じような意味で使われる言葉には責任転嫁があります。 対義語は自責です。 誰にも責任などない、単に運が悪かっただけだといった考え方は無責と呼ぶこともあります。
他責の代表的なものは、自分が招いた失敗の原因を他人に擦り付けるものでしょう。 例えばお店で自分が欲しいものと違った商品を誤って購入してしまったとします。 ほとんどの人は 「うっかり間違えてしまった」 すなわち 「自分の責任だ」 と考えて反省し、「次からはきちんと確認しよう」「気をつけよう」 と思ったり心がけたりするものでしょう。 しかし他責思考の人は、「間違えるような売り方をする店が悪い」 すなわち 「店舗や店員の責任だ」 と考え、反省どころか被害者意識から怒りを爆発させます。
店に 自己中心的 で理不尽なクレームを入れたり、「あの店は酷い店だ」 などと吹聴したり、謝罪や 土下座 を執拗に求めるなど、やたらと攻撃的なのも特徴でしょう。 自分は被害者であり悪いのは相手だと考えるので、逆にその裏付けを相手からの謝罪や与えた罰によって得ようともするのですね。 さらには ネット で騒いで店側にさらなるダメージを与えようとすることもあります。 こうした考え方や行動は 他罰的 (外罰的/ 他人に罪をなすりつけ、罰したい、痛めつけたいという思考) とも呼びます (意味はおおむね同じです)。
他責思考の人間は反省や自省がないので成長も進歩もなく、同じ失敗を何度も繰り返し、何年経っても同じ他責 (あいつが悪い、男・女が悪い、社会が悪い、政治が悪い…) をひたすら口癖のようにブツブツと垂れ流し続けます。 自覚がない人もいますが、自覚があって他責他罰をした後にちょっとした後悔をしたり、やめようとしても止まらないこともあります。 しかしそれが次に活かされないのであれば、自覚がないのと同じでしょう。
自分は被害者! 悪いのはあいつ! という思考
何か問題があった時に、一方だけが全面的に悪いということはあまりなく、関わった人それぞれに小さなミスや行き違いが生じている場合も少なくありません。 なので全てが自分のせいだなどと思う極端な自責やそれによる自己嫌悪の増大、自罰・自虐 のそれも、それはそれで本人も苦しいだろうし 不幸 なことではあります。 仮に他責思考だったとしても、それが心の中に留まっている限りは、その方が精神衛生上ずっと 「マシ」 なこともあります。 酒の席で友人相手に愚痴をこぼすなどは、お互い様の部分もあります。 しかし他責思考の人の多くは自分こそが被害者だと思いがちなために怒りを膨らませ、ほとんど逆切れに近いような怒りを周囲にぶちまけ当たり散らす傾向があり、迷惑度では自責のやその他の人たちの比ではありません。
また他責・他罰思考の人間は、自らを省みる能力に欠けるため、いわゆる 謝ったら死ぬ病 に容易に陥り、例えその後に自分が悪かったことが分かっても、謝ることも許しを請うこともできません。 むしろ自らの非を指摘してくる周囲の人間全員を敵とみなし、嘘や 詭弁 を重ねる中でどんどん攻撃対象は広がり (主語が大きくなる)、結果として孤立化・先鋭化します。 最終的には自分の理解者や味方ですら些細なことで攻撃し始め、周囲にはまともな人間がいなくなってしまいます。
もちろんその段階になっても、「悪いのはこちらの間違いを指摘したあいつだ」「あいつさえいなければ」「復讐したい、視界から消したい」 などと他責・他罰感情をエスカレートさせます。 たまに寄ってくるのは閉じた場で肯定し合えるような (エコーチェンバー) 、それでいていざ何か問題が起きたらさっさと縁を切ってくるような、同じ他責・他罰的で文句垂れ流しの不機嫌で迷惑な人間ばかりです。
こういった思考や行動に走ってしまうのは、心がけ次第で何とかなる本人の性格もあるのでしょうが、あまりに極端な場合は、いわゆる毒親による過干渉などである種の 認知の歪み が生じていたり、生まれつき知的機能に制限があるケースなど、何らかの心身的な問題を持っている場合も少なくありません。 症状 (あえてこういいますが) が軽いうちは、それでもいくばくかの自省もあるのでしょうが、何か起こるたびに自分以外が悪い、自分は被害者だと思い込むので毎日毎日被害者としての心の 痛み を積み重ねることになり、より一層追い詰められ考え方も悪化していきます。 またその傾向がさほど強くない人でも、悩みがあったり過労や飲酒などで思考力が落ちて一時的にそうした傾向に走り、それが引き金になる場合もあります。
思考はそう簡単に変えられるものではありませんが、言動は外的なあれこれによって、ある程度は抑制しやすいものでしょう。 例えば誤った他責発言を繰り返して 炎上 したら、それに凝りて口に出したり SNS に 書き込む ことは避けるようになるかも知れません (年中炎上しまくっているような人もいますが…)。 また怒りの対象が自分よりも強そうだったり ヤバ そうだと考えたら、反撃やトラブルを恐れ ヒヨっ て 自重 だってするでしょう。
痛い思いをする前に本人が気づけばよいのですが、そうでないのなら、そうした人とはなるべく距離を置く方が良いかもしれません。 負の感情は負の感情を呼びますし、こちらだって人間なんですから、いつもいつも責任を擦り付けられ不機嫌さを押し付けられては心身が持ちません。 またそんな人が起こしたトラブルに巻き込まれて疲弊するのはまったく無駄なことです。
街中で誰彼構わず時には電柱や看板にまで怒鳴り散らす おっさん とか、常にブツブツと独り言で文句をいってるブツブツおじさんやおばさんとかがたまにいますが、あれと同種の人たちであり、わざわざ 絡む 必要も価値もないでしょう。 もちろん一部の人にとってこうした奇人変人が面白いおもちゃや珍獣だと感じられるのはわかりますし、対面ではなくネット越しならからかっても安全だという娯楽性の高さは否定しませんが、あまり品の良い遊びではないことは自分だって分かってるのでしょうから、なるべく避けるようにしましょう。 ネットで周囲にそれとわかる状態で関わると、自分の評価を落とすだけです。
一方、相手が家族や大切な人間だったりしてそれもできないのなら、しかるべき医療機関などとつながれるように頑張るしかありません。 毒親持ちの交際相手などはその 環境 から救出して 呪い を解いてあげたくなりますが、相手の残りの人生の責任を一緒に取るつもりがないとこちらの心も折れてしまうかもしれません。
世の中には確かに悪と云えるものも存在しますし、その悪が悪だと思われずに当たり前だった時代もあります。 これはおかしいと思ったら、勇気を出して悪いものを悪いと主張するのも大切ですし、過去に声を上げた人がいたからこそ世の中が少しづつ良くなってきたのも事実です。 しかし自分以外が悪いを続けていったら、最終的には自分以外の世の中の人やものの全てが無限に悪いとなって、問題が解決しないばかりか、本人の心が押しつぶされることになります。 他人の責任を探し変えさせようとするより前に、まず自分の責任や自分が変わる可能性を探ってみるのが、本人にとっての早道でしょう。