被害者・弱者のふりをして相手の口を封じ上位に立つ 「被害者コスプレ」
「被害者コスプレ」 とは、何らかの トラブル などが生じた際に、事実関係や前後の脈絡を無視してすぐに自分を何の罪もない哀れで同情すべき被害者のポジションに置いてしまう人、自分には問題はないしあってもやむを得ないものだったとして、相手の非だけを声高に主張するような 自己中心的 で 他責・他罰思考 な人を批判的・侮蔑的にあらわす言葉です。 一般的な日本語では 「被害者面」、同じような ネットスラング で 「被害者ムーブ」、同じような 概念 で 「被害者マウント」(後述します)、さらに社会問題の活動家などとして恒常的に被害者の立場を執拗にアピールし続ける人を 「プロ被害者」 と呼ぶこともあります。
例えば店舗で客側の取り扱いにミスがあって商品を壊してしまったとして、一般的には壊した客に責任があり店側は損害を受けた被害者でしょう。 しかし被害者ぶりたい人は、「壊れるようなものを店頭に並べたせいだ」「こちらも悪いが店員の態度も高圧的で傷ついた」「たかが商品を壊したくらいで店は騒ぎすぎだ」 などと、自分の落ち度を相対的に小さくし、むしろ相手に非があり自分こそが被害者だと主張し始めます。 また被害妄想に陥りがちで、単なるミスや偶然、行き違いや勘違いの結果にいちいち相手の 「故意」 や 「悪意」 を見いだすのもよくあるパターンでしょう。
もちろん商品が不安定な場所に置いてあったとか、店員が理不尽に キレる など、実際に客側が被害者になる場合もあります。 そもそも交通事故でも何でもそうですが、犯罪ならともかく何らかのトラブルや事故が生じた際に一方だけが 100%悪いということはあまりなく、それぞれが少しずつ責任があるといった状況が多いでしょう。 しかし往々にして第三者には判断しづらい事実関係を自分に都合よく捻じ曲げて、加害者被害者の立場があべこべになるような捏造・作り話をする人も少なくないのが現実でしょう。
でっち上げによって他人を陥れて被害者ぶるような極端なケースは稀だとしても、相手の悪意のない何気ない行為を悪意のあるものだと決めつけてことさらにあげつらったり、非難されても仕方がないような自分の言動を相対化させ、微妙な言葉尻ですり替える方法はよく見かけるものです。 「間違えた」 で良いのに 「間違えさせられた」 と表現したり、「言わなかった」 を 「言えなかった」「言わせてもらえなかった」 にすり替えたり、「自分が悪かった」 を 「自分にも悪い部分はあった」 にして薄めたり 「誤解された」 と相手を逆に責めたり。
もちろん人間関係や力関係の不均衡・非対称性によって、間違えさせられたり言わせてもらえないような状況に追い詰められている弱者も存在します。 そうした弱者は声を上げることもできずに我慢を強いられがちでもあるため、救済したい、状況を改善したいと思うのは当たり前の感情でしょう。 問題は、こうした人たちの立場を自称被害者や弱者、あるいはその自称理解者や支援者が自分たちの言論の道具として利用し、本来救われるべき弱者の姿や声を相対的に見えなくしてしまう点でしょう。 場合によっては自らの立場を強化するため、声をあまり上げない本当の被害者を偽物呼ばわりして激しく攻撃すらします。 外見だけ被害者風の コスプレ だと呼ばれるゆえんです。
自分に都合よく捻じ曲げた話はそこここに矛盾が生じたりして、ネット などで目ざとく見つけられ反論や非難を集めがちですし、そもそも被害者コスプレするような人は常日頃から 「あれが悪いこれが悪い」 と事あるごとに不機嫌さと怒りに満ちた文句ばかりを 書き込んで いるので、過去発言などをサルベージされ、ブーメラン や セルフ論破 をきれいに決めてしまったりします。 タイミングによっては 炎上 や 祭り に発展し、自称被害者の過去の悪行が 晒されて しまうこともあるでしょう。
ただしこうした言葉や概念が広がる中で、加害者や加害実体を理解できていないだけの人が、自らの責任逃れや他人の痛みに無頓着なせいで被害者を侮蔑するためのレッテルとして使うこともあります。 当たり前の話ですが、被害者コスプレ扱いされた人間の全てが、自称被害者の嘘つきというわけではありません。 またコスプレという言葉を ネガティブ な意味で使うことから、ネガ比喩 だとしてこうした表現を嫌う人も結構います。
なぜ被害者の皮を被るのか
被害者コスプレや被害者ムーブに至る理由はいくつかあります。 代表的なのは、多くの人が持つ 「被害者を責めるのは気の毒だ」 という倫理的・感情的な部分に寄りかかって、反論を封じるという意図があります。 被害者と加害者がいれば被害者の味方をする人の方が多いので賛同も得やすく、承認欲求 だって満たされるでしょう。
また被害者である以上は加害者がいて、ことの問題は両者の間で生じたものであるため、強い 「当事者性」 を持てるという部分があります。 常識的でまっとうな反論を受けても 「当事者でなければこの痛みは分からない」「部外者は黙ってろ」 と、さらに反論を封じることができます。 部外者が関係ないなら部外者に向けて声を挙げる必要などないはずですが、これらの立場を積み重ねていくことでまっとうな批判をも 「被害者をさらに傷つける二重被害だ」「セカンドレイプだ」 と主張することだってできるでしょう。
弱肉強食の考え方がはびこり暴力が吹き荒れるような時代や国ならともかく、現代日本では 「弱者は守るべき」 という倫理観が極めて強い普遍的な価値として存在します。 とはいえ実際はそれらがキレイごとや建前に終わったり形骸化もされていて、現実に いじめ があったりネットでの誹謗中傷もあったりで、それが広く支持され本当に守られているかどうかははなはだ疑問です。 しかし学校内とか職場内とか隠れた場ではともかく、街中やネットといった公の場で堂々と弱者叩きやいじめをするのは人間性を疑われる極めて危険な行為であり、匿名系の掲示板ならともかく、身元が分かるような場では誰でもそれを避けようとするものです。 ネットにおける言論が単なる 「同意 獲得ゲーム」 となっている現在、「被害者の鎧」 は、相手がまともな人であればあるほど強い防御力を発揮します。
また弱者に寄り添うことで良い人ぶりたい、その弱者をダシにして他者を攻撃したいような人もいますから、それらが自分の味方として支持してくれ、自分に代わって反対者を攻撃までしてくれ (ファンネル)、ますます力を振るうことができるようになります。 弱者のふりをするだけで反論しづらい発言力と支持者まで得られるのですから、ますます弱者の立場を手放すわけにはいかなくなります。
暴力的で、攻撃性・加害性の高い自称被害者
被害者コスプレをする人にとって、自分が誰よりも酷い被害を受けた存在であるというのは、自らの立場を保持するための重要な要素です。 なので似たような被害を受けた人たちの間で、「どちらがより酷い被害を受けたか」「どちらがより傷ついたか」 の争いを始めます。 これらはどちらが弱い存在であるかで競い合う 「弱者マウント」(どちらがより優れているかを競う マウント の派生語) と呼びます。
その結果、被害状況説明で過剰な表現、盛りに盛った針小棒大な表現が横行し、時には捏造やそれに近い誇張が行われたりします。 もっとも多いのは、規模や数をごまかすといったものでしょう。 仮に間違いを指摘されても 「ゼロではないのだから事実関係は揺るがない」「数の問題ではなく、それがあったかどうかが問題だ」 などと開き直ったりします。 数が問題でないなら 盛る 必要などないので、すでに論が破綻しています。
また傷ついた、ショックを受けたといった主観的な被害感情は、外部から相対化や数値化がしづらく検証も不可能に近いため、安易に多用される被害者コスプレの典型例です。 「あまりのショックで泣いてしまった」「涙が止まらない」「震えて眠れない」「食事が喉を通らず5kg痩せた」「絶望した」 など、それが本人にとっては事実でも、その原因が日常にありふれていて問題にならないような正常な出来事や、そもそも本人に非があり自業自得で招いた結果だった場合、周囲はどう接してよいか分からなくなるでしょう。 過剰表現や被害妄想が強い人は、しばしば自分が一番辛い思いをしていると思い込みそれを周囲にアピールもしがちですが、腫れ物に触れるように気遣う周囲の人たちの苦労も並大抵ではありません。
一方で、それほど繊細で傷つきやすく感受性が豊かすぎるほど豊かなはずなのに、他者に対する攻撃ではデリカシーに欠ける極めて 強い言葉 (相手を性犯罪者や差別者扱いしたり、人間の クズ、キモイ と侮辱したり、容姿や 非モテ・童貞 であるのを揶揄したり) を濫用し、罵詈雑言を平気で浴びせかけるので訳が分かりません。 こうした、自分の お気持ち だけを根拠に他者を口汚く罵るような人は、「繊細チンピラ」 とか 「お気持ちヤクザ」 と呼ぶこともあります。
これは実際によくわからない繊細さは持ち合わせていて自分の受けた痛みしか目に入らないといった状況もあれば、自分が精細だと思い込んでいるため相対的に他人が鈍感あるいは愚鈍に見え、口汚く罵って 雑 に扱ってしまっても一向に構わないという差別感情などもあるのでしょう。 そもそも 「怒り」 それ自体が、おおむね被害感情から生じるものでもありますし、一部の人間は自分が傷つけられた時、それと同じ傷を自分が他人に与えても良い、その権利を得たと思い込んだりもするものです。
不機嫌さや怒りを表面に出して他人をコントロールしようとする人は不快だし迷惑なものですが、他人に罪悪感を植え付けてコントロールしようとする人は、それに輪をかけて困った存在です。 自らに生じた罪悪感や良心の呵責を無視できる人は少なく、ついつい相手に同情したり自分の正しさを自分自身で確認したくなって、自称被害者に寄り添ったり寄り添ったふりをしてしまいがちです。 それで丸く収まることもありますが、相手が何らかの意図やビジネスとして被害者やその支援者のふりをしている場合、事態はより悪化してしまうでしょう。
理屈と感情を切り離すのは難しいですし、切り離す必要がないことも少なくありませんが、自称被害者の主張を鵜呑みにするのではなく、一度立ち止まって考えてみるのは大切でしょう。 一方の話だけで判断するのは危険ですし、話の内容に矛盾点があったら、疑ってかかるのは当たり前です。 それは嘘の自称被害者からの被害を防ぐだけでなく、本当の被害者の被害をより深く理解し、より良い社会を作ることにもつながるのですから。