話の辻褄が合わずに自分で自分を論破… 「セルフ論破」
「セルフ論破」 とは、論理が破綻していて自分で自分の意見を論破しているような 突っ込みどころ満載 状態に陥っている コメント や レス、あるいはそれを発信している人物などを揶揄する ネットスラング です。 「自分論破」「自己論破」 と呼ぶこともあります。
一つのコメントやレス単体でセルフ論破状態になっている場合もあれば、その人物がそれまで唱えていた意見と矛盾する状態に至っている様を指す場合あります。 意味合いとしては ダブスタ (ダブルスタンダード) や 言行不一致、あるいは ブーメラン などと似た ニュアンス ですが、単にまともな論が立てられない愚か者、バカ、あるいは 党派性 に凝り固まって身動きが取れない 自己中 で不誠実な ポジショントーク を揶揄するような意味が強い言い回しでしょう。
一方で、自虐的 な セルフツッコミ としてことさらにセルフ論破を行う場合もあります。 この場合はわざわざ文章の最後に 「(セルフ論破)」 などと書き添えて、「自虐 ツッコミ してますよ」 と読む人に明示する場合もあります。 例えば日ごろ肥満を気にしている人が、いかにもカロリーが高そうな食事に舌鼓を打っている様に自ら 「だからお前は太るんだよ!(セルフ論破)」 とコメントするなどです。
「まともな話し合いができない相手」 だとの烙印となる 「セルフ論破」
自虐的な自分自身に対する論破はともかく、他者に対してこの言葉が使われるのは、日常会話や ネット における個人的な意思表示、メディアなどの記事内容に対するものが多いでしょう。 別に学術論分の話ではないので、指摘する方もそれほど厳密な立論に基づく精緻な論証など求めているわけではありません。 とくに 掲示板 や ツイッター といった SNS での意見 書き込み などは、多少の云い間違いや矛盾点をいちいち重箱の隅を突くがごとく指摘しまくるのは野暮、揚げ足取りだと云った考え方もあります。
しかし一方で、雑 な論で他人を口汚く批判・攻撃したり、自分が正義の側にいるとの思い込みから社会悪を 叩く ような強い意見の場合、「筋の通らない支離滅裂な論で他人を批判するな」 との反感を受けるのは止むを得ない部分があります。 当たり前の話ですが、他人を批判するのなら他人から批判されるのも容認すべきですし、正当性のある根拠が示せないのなら、それを要求されるのも当然でしょう。
とくに日ごろ社会正義の側に立っていると自称し、平和とか 人権 とか平等・多様性の尊重などなど、耳障りの良い 「キレイごと」 を得意満面に発信し、自分の意見と異なる人に対する攻撃的・他罰的 なコメントなどを嬉々として行っている独善的な人が、自らの主張と相反する矛盾した意見を発したら、揶揄したくなる人も多いでしょう。 しかも矛盾点を指摘されてもそれを認めず、謝ったら死ぬ病 を発症して筋道の通らない見苦しい反論を試みたり、正当な指摘を誹謗中傷だと決めつけて感情的に喚き散らしたり被害者ポジションを取るようなケースでは、「まともな話し合いができない不誠実な人」「嘘つき」 だと烙印を押されても仕方がない場合もあります。
「キレイごと」 が 「キレイごと」 のまま終わらないために
「キレイごと」 はそれを信じている人がいる限りは現実を動かすこともありますから、「キレイごと」 それ自体は悪いことではありません。 誰も理想論を唱えないなら、いつまで経っても社会の進歩だって訪れないでしょう。 しかし 「キレイごと」 を反論を封じるための単なる道具に使いながら、矛盾した意見で他人を攻撃するのは、キレイごととか理想論からは、もっとも遠いふるまいだと云えるでしょう。
これらは 筆者 を含め、容易に誰でもが陥りやすい落とし穴でもあります。 何か意見を云う時、自らの文章や論に矛盾がないか、逆に誰も反論できない言わずもがなのキレイごとばかりを都合よく使っていないか、気を付ける癖はつけたいものです。 人は弱いものですから、何かを考えたり決断する際に、世間一般で評価されている価値観を自らの思考の根拠や裏付けにすることもあるでしょう。 しかしそれが 「正義」 であればあるほど、その用い方には自制が必要かもしれません。 正義は人の心を容易に他罰的・攻撃的に変えてしまうものだからです。