子供の頃、「ホモ牛乳」 を飲んで…アッー!
「ホモ」 とは、主に男性同性愛者やその 性癖 を表す言葉です。 「ガチホモ」 とは、「ホモっぽい」 などという段階ではなく、ガチ でホモだ、本物のホモだの意味になります。 俗語でひっくり返すと 「モーホー」 になります。
ホモセクシャル イメージ |
現在は同性愛の言葉として、性別を盛り込んだ ゲイ (もっぱら男性) や レズ・レスビアン (もっぱら女性) などといった呼び方が、かなりポピュラーとなっています (それぞれに本来は性別の 概念 は含まれていませんでしたが)。
しかしこれらの言葉がこれほど一般的な言葉になる以前は、同性愛者全体を指し示す言葉として 「ホモ」 という言葉が差別的なニュアンスを持ってかなり盛んに使われていました。
「ホモ」(Homo) は元々 「同じ」 という意味の言葉なので、「ホモセクシャル/ Homo sexual」 は 「同性同士が愛し合うこと」 として、使われていたんですね。 ただし日本では、メディアなどが 「男性同性愛」 なら扱いやすかったこともあったのか (文芸や芸術の世界で、薔薇 などの活動が広まっていましたし、新宿 界隈 は当時の文化人の交流スポットでした)、もっぱら男性同性愛者を指す言葉として使われてはいました。
なおキリスト教の世界では同性愛、とりわけ男色は厳しく禁じられていましたので、「ホモ」 も当初は精神病の一種のような扱いで、「ホモセクシャル」 も病名として考え出された言葉だったようです。
ボーイズラブはボーイズラブであって断じてホモでは(ry
ただしホモが、「同性同士でエッチをするヘンなヤツラ」 的な差別的な言葉として面白おかしく使われている中 (特に1986年11月11日のスペシャル版を最初とし、1988年10月13日からレギュラー化して人気を得ていたバラエティ番組 「とんねるずのみなさんのおかげです」 の人気 キャラ、石橋貴明 演じる 保毛尾田保毛男 の影響は無視できないものがあります)、異論も各方面から登場し、強く批判されることに。
こうした異論を唱えたのは、性同一性障害 (Gender Identity Disorder) などで悩む人々や、男女の同性愛者らでした。 これら同性愛や性同一障害を差別的に嘲笑する内容の放送を行うテレビ局などへの批判が集まる中、別の言葉にしようという運動も盛り上がり、いわゆる運動家らだけではなく、それまで自らがそうした立場にあることを隠していた一般の人々もカミングアウトし、そうではない人達も人権侵害だとして広く運動に参加。 次第にホモとの言葉は使われるケースが減り、ゲイやレスビアン (レズ自体にも差別的なニュアンスがあるとしてレスビアンへの言い換えも) になっていったのは、事実として知っておいても良いかも知れません。
一方、ゲイバーといったショービジネス、水商売の陽気な世界では、「それも含めて笑い飛ばそう」 的な明るさから、また過去に戻って 「ホモ」 を積極的に名乗る人たちもいるようなんですけれど、それまでの経緯や背景を知らずに、部外者がそれに乗るのも問題があるのかも知れません。 もちろん、こうした 「目立つ存在」 は極少数で、多くの人達は日常生活を共にする目立たない存在でもありますから。
なおオカマ (多くの場合女装癖の伴う同性愛) やオナベ (多くの場合男装癖を伴う同性愛) の場合、相手を同性だと認めたうえで愛を感じるケースはまれで、自分自身の性別になじんでいない、本人の感触では異性に恋していると感じているケースが多いようです (ある種の ノンケ)。 したがって同性であるのを強く意識した上で男性同士、女性同士で愛し合うゲイやホモとは一線を画すとする見方が一般的です。
同性愛は 「異常」 なのか? 自分と違う価値観も尊重する時代へ
ところで、同性同士で愛しあうのは異常で、社会として強く否定し、忌むべきものなのでしょうか。 セックスや愛しあうという行為を 「子孫を残すための行為、営み」 と考えると、同性同士でどれだけ愛しあっても子供はできないのですから、自然の摂理に反し、生物としては理解しがたい点もあるのかも知れません。
しかし男女の異性間の愛の営みだって、その全てが子孫を残すためのものではありません。 また、結婚 しても子供を作らないと決めている夫婦だっています。 避妊や中絶だって 普通に 行われています。 自然の摂理や本能といったものとかけ離れた行為を人間が理性や知性、文化、習慣で行うことは、恋愛対象の選び方や愛の営み以外にもたくさんあります。 これらを一切認めないというのは、どうしても子供に恵まれない夫婦や、身体的、年齢的に妊娠出産ができない夫婦の愛やセックス、結婚には、意味がない、無駄だと言っていることと同じになってしまいます。
「愛しあう」 とは何なのか、「異常」 の定義とは何なのか、それは 「人によってまちまちな、ちょっとした違い」「個性」 とどう違うのか。 たくさんの人間がいて、それぞれが違った考えや好みを持っている中で、こと恋愛対象の選び方や 同意 のある共同生活のありようなどについてのみ、多数派の価値観だけで少数派を扱い、自分たちの価値観に合致しないものを好奇の目で見て差別や嘲笑、法的・税制上の区別をするのが正しいとは云えないでしょう。 同性愛を病と考えたり、治療や淘汰が必要だなどと考えるのは、明らかに前時代的な誤解もしくは偏見ですし、これでは一つの社会、共同体にあって、一緒に生活する善良な人たちに等しく認められるべき個人の名誉も守れません。
日本においては、同性愛は昔から広く見られた 「生き方」 であり 「文化」 でもありました。 キリスト教の世界で忌み嫌われた同性愛ですが、そのキリスト教が広く信じられている欧米でも、近年では同性愛者同士の婚姻 (同性婚/ 財産の扱いや税金、その他の社会保障や平等な人権を求める運動) が法的に認められるなど、「人それぞれの生き方」 を徐々に認める方向になっています。 生殖能力のあるなしは、少なくとも現代の人権感覚では、差別されるべきではないのです。
日本も参加している世界人権宣言に基づく人権週間の啓発では、性的指向、および性同一性障害を理由に行う差別は人権侵害だとされ、その認識も広まっています。 日本がいまさら、中世のキリスト教的な価値観で少数派である人々を迫害し、弱いもの いじめ をしても誰も幸せにはならないでしょう。
なおことさらに同性愛者が侮蔑の対象となりがちな点については、前述したテレビバラエティをはじめ、様々な創作物において、ホモが極端なコミカライズ、誇張によって描かれている点がかなり影響しているのは事実でしょう。 一昔前までは、男性のホモっぽいキャラや登場人物は、相手がちょっと良い男とみれば見境なく欲情、あるいは襲ってしまうような、ほとんど色情狂のような扱いばかりでしたから。
同性愛や同性愛者に対する強い恐怖や嫌悪の感情を持ち、偏見や差別、人格ごとの否定、拒絶を行う人を、ホモフォビア (Homophobia) などと呼び、最近ではこうした差別的な考えや立場をなくしましょうとの呼びかけも盛んですが、「世の中には色々な人がいる」「自分とは違う人、理解が難しい人がいる」 という当たり前の事実を受け止め、お互いに尊重できると良いですよね。
同性愛は 「生産性がない」 のか?
ちなみにこうしたホモフォビアな考えを持つ人たちは、これまで自分から見て 「理解不能」「気持ち悪い」 という理由だけでそうある人たちを批判侮蔑してきたものの、それが人権上問題ありとなるや、「社会を維持するためには社会への参加者=子供 を常に再生産せねばならず、子供ができない同性愛や同性婚は生産性がなく社会の維持に役立たない」「同性愛者や同性婚ばかりになると社会は崩壊し、種としての人間も消えてしまう」 ともっともらしい理屈をつけて批判する場合もあります。
こうした考えは突き詰めると、「生産性」 がない人、あるいはそれに乏しい老人や障害のある人、病人なども不要だと言っていることと同じになります。 こうした 「弱者」 を 「自己責任」 で切り捨てるような社会は単なる弱肉強食の世界であって、そもそも維持して守るべき価値のある社会ではないでしょう。 弱肉強食で良いなら人と人が支えあう社会など必要ではないからです。
また 「このままいくと同性愛者や同性婚ばかりになる」 ことなど、過去の状況、現在の情勢からみて全くあり得ない無意味な仮定、あるいは脅しでしょう。 議論の前提にもならないと云うか、自らの勝手な不快感や差別心に正当性を持たせるための後付け議論はやめてもらいたいと思います。
現状日本でも、人権意識の高まりや LGBT (性的マイノリティ) への理解の促進などにより、同性婚の議論が盛んです。 しかし旧来の価値観を絶対視する強硬な反対派との議論はあまりかみ合わず、一方で推進派も一部が過激で性急な法改正への主張を行い無用な反発を招くなど、議論は混とんとしています。
この問題は、単に同性婚を認めればそれで解決する問題ではないでしょう。 なぜなら、現在の法律や社会的規範の多くが男女で結婚し子供を産んで育てることを前提に作られているからで、家族の形、生活のパートナーのありよう全体で考えなければ、いずれ矛盾が表面化し深刻な問題や悲劇が生じるのが明白だからです。
子供は生まれないとして養子縁組を男女夫婦とまったく同じレベルで認めるのか、貞操義務は設けるべきなのか、扶養とか離婚時の財産分与、養子の親権、遺産相続、もろもろの税法上の控除や優遇はどうなるのか。 ほかにも様々な問題がありますが、現段階でこれらすべてを男女の婚姻と同等にするのは、法の趣旨や整合性の観点でも、社会的合意の観点でも、現実問題としてほとんど不可能でしょう。 「差別はいけない」「選択肢を増やすだけ」 という素朴な感情だけでは解決しない問題が山積なのです。
現実に有形無形の差別や不利益を受けている同性愛者が生きているので、いつまでも問題を先送りしたり、議論だけを延々と続けるわけにはいきません。 しかしこれまでの社会全体の婚姻や家族、生活パートナーのありように対する仕組みや考えを性急にすべて破壊し刷新するのも現実的ではありませんし、そもそも結婚とか婚姻制度そのものの意義や是非も問われているのでしょう。
歩みは遅くともそれぞれが折り合える部分で折り合いながら少しずつ変えていくこと、そしてそれ以前に、この問題を誰もが身近な問題として考え、理解することが大切なのでしょう。