リアル (現実) とリアリティ (本物っぽさ) は違うもの 「リアリティライン」
「リアリティライン」 とは、創作物におけるリアリティ (現実感、本物っぽさ) をどのくらいの正確さや説明量で提示するのが良いのか、あるいはどこまでなら現実感のある描写に寄与し、どこからが非現実的な描写になるかのライン、基準線のことです。 ラインは作品の ジャンル や目的、作者 の意図などによって異なりますから、別の言い方をすると、作品の 設定 や物語の要素が、その作品の物語や 世界観 にふさわしいかどうか、受け取り側が違和感なく受け入れられ、説得力を感じたり納得感を得て 感情移入 できるかどうかの表現内容のラインを指すものとなります。
これらは絶対的な基準があるわけではなく、作品の傾向とそれを受け入れる側 (あるいは一般常識の範囲) によって相対的なものです。 例えば現代を舞台とした医療関係の物語なら、医療の専門用語といった細部においてもある程度事実に忠実・正確なディティールが必要になることもありますし、逆に何でもありの ファンタジー なら、非現実的でド派手な物理現象が作中に生じても、「そういうものだ」 と納得してもらえる可能性もあります。 また同じ医療にまつわる作品を医療関係者が見るのとそうでない 一般人 が見るのとでは、おのずとそのラインは異なるものとなるでしょう。
違和感は、没入や感情移入を妨げてしまう
例えば現代日本で生活する高校生がいきなり超能力者となって異世界からやってきた モンスター と バトル を繰り広げるといった物語があったとします。 超能力自体は多くの場合、現実の物理法則や定数からはかけ離れた非現実的なもの、荒唐無稽でリアリティのないものとなるでしょう。
しかしこの時点で 「超能力なんてリアリティがない」 としてしまっては、物語自体が存在できなくなってしまいます。 従ってこうした 「物語の根幹をなす設定」 については、多少現実離れしていても 「そういうジャンルの作品だから」 と受け入れる 読者 や視聴者が多いでしょう。 むしろそうした 「現実ではありえない力」 を得た キャラクター が、現実の世界と同じような世界を生きる作中のその他周囲の人たちとどう折り合いをつけていくかに、興味や関心が向くことが多いかもしれません。
ところがそのキャラなり 主人公 なりの通う高校が、現実の高校とはまるで異なるものだった場合はどうでしょうか。 そこには大きな違和感が生じたり、気になって我慢できなくなってしまうこともあるでしょう。 なぜなら日本人のほとんどは超能力は使えなくても高校には通っていて現実の高校生活がどんなものかを良く知っていますし、その違いが作品の目的や面白さ、必要な設定と関係がなければ、単なる雑音になってしまうからです。 これは逆に云えば、学校の描写とか学校生活のディティール、高校生くらいの若者の心理描写を丁寧に描いて作品全体のリアリティを高めれば、荒唐無稽なはずの超能力にも説得力や本物っぽさが宿ることもあります。
歴史とか SF、医療、法曹関係、あるいは何らかのスポーツや競技といった専門性の高い分野の創作物は、客観的な事実や一般の認識から大きく外れない程度の最低限の約束事、これだけは外すわけにはいかないという守るべき設定があります。 これらを検証することは一般に考証と呼ばれますが、ただしあまりに考証にこだわり過ぎると、それはそれで長々とした説明が必要になったり、物語から明快なわかりやすさを スポイル することにもなります。
架空世界における設定バランス もそうですが、どこにこだわってどこを割り切るのか、どこで嘘をついてそれをどう辻褄合わせするのかは、細かい設定間違いなどを重箱の隅を楊枝でほじくるように粗さがしして指摘する受け取り手も少なくない中、とても難しい問題だと云えます。
現実をそのまま忠実に再現しても、必ずしもリアリティが向上するわけではありません。 細部にこだわりすぎて物語が 地味 で面白くないものになってしまうかも知れません。 マンガ や アニメ やドラマといった作品に必要以上のリアリティを求めても、それによって作品の面白さが減じてしまうのならあまり意味はありませんし、多くの ファン から支持されてビジネス的な成功を収めることもないでしょう。
子供でも理解できて気軽に楽しめる エンターテインメント にするのか、教養やドキュメンタリー・ノンフィクション風の情報発信や問題提起を目的とした大人向けのものにするのか、あるいは考証やそれを表現に反映するためのコストなど様々な条件を加味しつつ、その作品をどのように作るかの重要な基礎のひとつとなるのがこのリアリティラインなのでしょう。