長々とした説明をキャラにしゃべらせる… 「説明セリフ」
「説明セリフ」(台詞) あるいは 「解説セリフ」 とは、本来は作品中の物語が進む中で、文字作品なら地の文 (セリフ以外の文章) による情景描写、視覚作品なら 絵 や動きなどで自然に伝えるべき物語の展開や 設定、世界観、背景、作者 のメッセージなどを、登場人物が直接しゃべったセリフとして長々としてしまう状態を批判的に指す言葉です。
いかにも説明っぽいセリフが多用されるのは、作者の力量不足とされることが多いようです。 確かに登場人物に言葉でしゃべらせれば簡単ですし、設定や状況の説明を一番安易に行う手抜きに思える部分があります。 しかし一方で、設定が複雑だったり歴史ものの作品で様々な知識や前提条件を理解していないと物語が分からなくなりそうな場合は、それをその都度セリフで説明してくれるのは 「わかりやすい」「便利だ」 と感じる 読者 や視聴者もいます。 とくに長期にわたって連載や放映が続いた作品では、初期の頃に登場した キャラ や伏線は忘れられている場合も多く、回想シーンや説明セリフがないと分かりにくいでしょう。
とは云え何度も長々とわざとらしい説明じみたセリフをしゃべられてはリアリティも失いがちですし、まして作品の核心部分、メッセージなどを直に語られると、何やらお説教じみてくるというか、物語やキャラがメッセージ伝達のための単なる道具にも見えて何かと白けがちです。 「物語なんだからセリフじゃなく物語でやれ」「自作品の ファン や受け取り側の感受性や理解力を信頼してないのでは?」「子供向け舞台劇の科白じゃあるまいし」 と感じられ、一般的には 「説明セリフは避けましょう」 といった認識がされるケースが多いでしょう。
とくに小説やマンガに比べ圧倒的に情報量が多い映像作品では、よりいっそうくどくて過剰な説明に感じられることもあります。 創作者としてファンの理解力を信頼していないだけならともかく、そこに自分の表現に対する自信のなさ、創作する者としての度胸や覚悟のなさまでが感じられてイラつくこともあります。 ただしバトルものの作品で ヒーロー や ヒロイン などが必殺技の名前を叫んだり、戦いに勝った後に敵に技の説明をするなどは、作品傾向によってはギリギリ許されたり、ある種の様式美としてむしろ求められるケースもあるかもしれません。
とはいえ、セリフで聞かないと理解できない人も
上記の説明と矛盾するようですが、海外向けの作品などでは文化の違いなどにより、はっきりとセリフの形で表現しないと理解できない場合もあります。 また海外のみならず同じ日本人同士でも、世代によって、あるいは大衆向けとそうでないものとで、どこまで説明するかが変化することもあるのでしょう。
一昔前までなら、「いちいち口で言わなくても想いは伝わる」「以心伝心」 みたいな意見が多かったものですし、口先だけのセリフより、表情や行動や日ごろのコミュニケーションでそれが伝わる方が好ましいと考える人が多かった気がします。 しかしいつからか、「愛してる」 とか 「感謝してる」 みたいな言葉を恥ずかしがらずにはっきり口にしよう、言葉にしないと伝わらないよみたいな風潮が、社会でも推奨され強まっている印象もあります。
親が子供に 「元気か?」「ちゃんと食べてるか?」「ちゃんと寝てるか?」「仕事は順調か?」 などと訊ねるのは、ごくありふれた親子関係にあって読解力や感受性も備わっていれば、「お前を心から大切に思っているし、愛している」 という感情から発した言葉だと理解できると思うのですが、「お前を愛してる」 みたいな直接的な言葉にしないと伝わらないのだとしたら、ちょっと寂しい感じもします。 とはいえドラマの中のセリフならともかく、家族や大切な人に対しては、一度くらいはしっかり言葉で伝えた方がいいよな…とは思いますけれど。
説明キャラと聞いたか坊主
作品中で説明や解説を頻繁に行うキャラを、とくに 「説明キャラ」「解説キャラ」(あるいは説明要員) と呼ぶこともあります。 単に物知りな登場人物の一人として扱われる場合もあれば、スポーツや ゲーム といった競技ものの作品の場合、作品に登場はするけれど物語に大きな影響は与えない 実況 のアナウンサーや解説者といった半部外者、補欠やベンチメンバーとして登場する場合もあります。 またこうしたキャラが問わず語りで独り言 (モノローグ) としてしゃべったり、声に出さず心の声として表現する場合もあれば、対となる聞き役に 「無知キャラ」 を設定し、無知キャラと解説キャラとの掛け合いで解説や説明が行われる場合もあります。
一方、物語の序盤に通行人や町の人などが世間話や噂話を囁き合うような形で時代背景や設定を見ている者に伝える場合は、歌舞伎のそれに倣って 「聞いたか坊主」 と呼びます。 これは物語が始まるとすぐに 「おい、聞いたか?」「おう、聞いたぜ」 といったセリフの応酬で説明を行うような形のもので、歌舞伎 「京鹿子娘道成寺」 の幕開けで坊主が 「聞いたか聞いたか」「聞いたぞ聞いたぞ」 と掛け合いながら筋書きを知らせるものから来ています。
ナレーションやテロップ、解説コーナーなどの場合は
登場人物のセリフや独白ではなく、ナレーションやテロップで説明を行う場合もあります。 この場合は作品内の世界とは別の メタ な扱いとなり、ナレーターが長々とセリフをしゃべっても解説セリフと呼ばれるケースは稀です。 しかし 「現実世界にナレーションやテロップは出ないだろう」 との認識からリアリティが感じられず作品世界への 感情移入 や没入感が削がれたり、あまりに長いと物語のテンポを乱すこともあるので、ない方が良いという意見が多いかもしれません。
ただしテレビなどの報道番組やノンフィクションのドキュメント番組などでナレーションやテロップは多用されるので、逆に映像を通した状態では作品傾向によってはリアリティが増すとの意見もあります。 このあたりは映像表現におけるレンズ描写 (例えば画面が揺れる、魚眼や広角レンズのようなゆがみがある、太陽や明るい光にフレアやゴーストが生じる、水滴がつくなど) が逆にリアリティを感じさせる場合があるのと同じで面白い現象でしょう。 これらは現実の目では起こりえないものばかりですが、その場にいる臨場感よりもカメラで本物を映し出していると信じるドキュメンタリー映像の手法の方にこそ現実味が感じられ、それらが錯綜してより強い本物感が出てくるのですね。
実話もしくは実話風のフィクションなどではこのナレーションやテロップは非常によく用いられ、代表的な存在に格闘技マンガとして一世を風靡した 「空手バカ一代」 などは、その一つの原点にして極北といって良い存在でしょう。 また アニメ 「宇宙戦艦ヤマト」 なども、作中の日時や場所・人物・兵器などの名称をいちいちテロップで出したり状況を模式図で図解するパートもあり、遠い未来を描いた創作物だしアニメでもあるのに、まるで史実の戦争ドキュメンタリーを見ているようなリアリティや緊張感がありました。
また物語の途中でちょっとした説明や解説のためのコーナーを設ける場合もあります。 おおむね先生役となるキャラやナレーターが登場し、「説明しよう!」 などとしゃべりながらコーナーが始まり、図解なども交えて詳しく説明する場合もあります。 さらに 「魁!!男塾」 の 民明書房刊 (しばしば 「知っているのか雷電」 とセット) のように、架空の出版社の書籍から引用したような形で架空の設定を説明し、それがある種の名物となっているような作品もあります。
解説系の作品の場合は
説明や解説を目的とする作品の場合は、そもそも説明や解説のための作品ですから、否定的な意味で説明セリフと呼ばれることはないでしょう。 しかし何から何までセリフで説明されては、「だったら説明文や解説書でいいじゃん」 となりますから、あくまで エンタメ として許容される範囲はあります。 いずれにせよ、どのような傾向の作品であっても、長々とした説明は嫌われやすいのが現実でしょう。