最期の時くらい笑って死にたい…走馬灯デザイン
「走馬灯デザイン」(そうまとうでざいん) とは、人が死ぬ間際に脳裏に浮かぶとされる人生の様々な情景の再現、走馬灯のように視覚的に蘇る記憶の内容を、事前に自分で作ったり編集したり、あるいはコントロールやプロデュースしてしまうことです。 走馬灯演出 とも呼びます(多少 ニュアンス は異なります)。
一般に寝ているときに見る 「夢」 は、脳内に記録された様々な断片的情報を就寝中に整理し記憶し直す際に見るとされます (脳のデフラグとも)。 臨死体験における走馬灯の原理がそれとほぼ同じもの、あるいはその上位互換、総集編だとするなら、脳内にあるであろう 「人生の出来事記録エリア」 に 「望ましい記憶」 を事実として挿入する必要があります。 「本来の記憶」 に埋もれないように、さらには悪い記憶を上書きし消し去るくらい圧倒的に強烈なイメージで割り込ませられれば、「夢を見る」 のと同じように走馬灯で見ることもできるでしょう。
「走馬灯デザイン」 は、こうした コンセプト と、それを実現するための様々な方法をあらわす言葉となります。
脳内の 「人生の出来事記録エリア」 に、見たい記憶を無理やり割り込ませる
これといった華々しい出来事や イベント に恵まれず、面白みのない貧しい人生経験しかない人、あるいは二度と思い出したくもないような辛い体験に満ち満ちた人生を送ってる人は少なくないでしょう。 そうした人が 「もし人生が終わるときに中身のない走馬灯や悲惨な情景ばかりが脳裏に浮かんでは 「俺の人生無意味だった」「辛いことしかない人生だった」 と思いながら死ぬことになる」「それは嫌だ」 と考えるのは自然なことでしょう。
普通の人はそうならないよう、走馬灯の有無とは関係なく人生そのものを豊かにすべく頑張って生きていく訳ですが、もはや挽回不可能、どう考えても人生全体がろくでもないことが確定した段階で、「死ぬ時くらい気分よく死にたい」「最後さえ良ければ何となくそれで納得できる」「どうせ死ぬ間際なんだから意識もあやふやだろうしごまかしきれる」 とのかすかな希望を持つのは、それほど突飛な発想でもないでしょう。
走馬灯は記憶の中にあるこれまで体験したり見たり考えたりした出来事や場面からいくつかのシーンが選ばれ、ダイジェスト状に脳内に再生されると考えられます。 そのすべてを改ざんするのは無理としても、せめて一部には晴れがましくも誇らしく喜ばしい、心躍る素敵なシーンを何としてでも脳内の記憶領域に 「事実」 として割り込ませる必要があります。
どうやって記憶を改ざんし走馬灯をデザインするのか
走馬灯デザイン実現の基本的な考え方は、「見たい夢を見る方法」 に準じたものとなります。 見たい夢を見る方法とは、例えば見たい夢の内容を細かく具体的に考え思い浮かべる、寝る前に見たいシーンが描かれた絵や写真をしっかり見てそれを枕の下に入れる、就寝中も無意識下で感じられる可能性のある音や匂いを用意する (それらしいBGMを流す、気分がよくなるお香を焚く) などです。
昔からよく言われる 「絵や写真を枕の下に入れる」 などは気分の問題なのでしょうが、それらの行為をすることによって就寝前に改めて視覚情報として見たい夢のイメージをインプットするのは重要でしょう。 これを 「その日の夢」 の レベル ではなく、「いつ来るかわからない人生最後の走馬灯」 で必ず現れるよう、日々繰り返し何度でも刷り込む必要があります。
どうせ死ぬなら、好きなキャラに抱かれて死にたい…
ところで走馬灯デザインをする人は、どんな走馬灯を見たいのでしょう。 おたく な人の場合、やはり好きなアイドルやタレント、アニメ や ゲーム に登場するお気に入り キャラクター などとのラブラブなシーンとか、自分が ヒーロー となり世界を救った、宇宙を駆け巡ったなどの気宇壮大なエピソードになるのでしょう。 しかしこれらは実際にやってみることはできません。
そこで、部屋全体に好きなタレントやキャラの写真や 画像 を貼りまくって四六時中視界や意識にそれが入るようにする、そのことばかり考える時間を毎日設ける、アニメやゲームを意識が朦朧となるレベルにまで見続ける、プレイし続けるなどの物量作戦が有効でしょう (いわゆるセルフ洗脳、ブレナン神父症候群)。 それこそ夢に出るくらい脳にイメージを徹底的に叩き込めば、人生最後の走馬灯タイムの時に、現実の記憶を押しのけてそれらが現れる可能性は高まるでしょう。
「笑って死ねる人生」 には、準備や努力が必要なのです。
そもそも 「走馬灯」 って?
なお走馬灯 (走馬燈)とは、中国で生まれた灯籠 (灯篭) の一種です。 回り灯籠とも呼ばれます。 光が漏れる 枠 の部分が二重となっており、回転する内側の筒状の枠に切り紙絵を貼り付けると、その図案が影絵として外側のスクリーンに回りながら次々と写るように細工されたものです。 光と回転の力は、二重枠の中心にあるろうそくの光と熱によって生み出されます。
その後、人が死ぬ間際、様々な記憶が脳裏に現れては過ぎ去っていくさまを 「走馬灯のように」 とあらわすことが多くなり、こんにちでは走馬灯と云えば 「死ぬ寸前に生じるもの」 の代名詞になっていると云って良いでしょう。 なお欧米などでは、「パノラマ記憶」 と呼ぶこともあります。
こうした経緯もあり、仕事で疲れた時、重大なピンチや大きなショックを受けた時に 「走馬灯が見えた」 などと表現して、「死にそうだった」「あの世にいく寸前だった」 あるいは 「終わり」「END」 を遠まわしに言い表す場合もあります。
なお走馬灯を利用した言葉もいろいろあり、おたく関係では 走馬灯ソング などが割と知られている言葉でしょう。
なぜ臨死体験として走馬灯が現れるのか
ちなみにどうして死ぬ間際にそのようなものを見るのかについては様々な説があります。 就寝時に見る 「夢」 が 「記憶の整理」(デフラグ) なのだとしたら、走馬灯は生命の危機にあって生き残る可能性を少しでも高めるために行う 「記憶の検索」 なのかも知れません。 一般に走馬灯は、事故などによる突然死の危機に晒された際に見やすいとされます。 だとしたら、人生で蓄積してきた膨大な記憶 (情報) からピンチを脱する方法やそのヒントはないかと必死に探す本能的な作業なのでしょう。
走馬灯とは違いますが、事故などに遭って生命の危機を感じると景色がスローモーションのようになったという話はよく聞きます (筆者 にも自動車事故で経験があります)。 これは危機にあって死を意識・確信すると思考速度が異常なほど速くなることを意味し、その理由は走馬灯を見るのと同じく、「死という最大の危機に対し、生き残る方法を見つけるために脳が活発化」 しているためと考えられます。 「火事場のバカ力」 は、身体能力だけでなく脳や精神も活性化させるのでしょう。 またこうした現象は若い人ほど起こりやすいとも云われています。 走馬灯を上映するには、脳の若々しい力が必要なのかもしれません。 高画質の動画を見るためには高性能な CPU や GPU が必要なのと同じ感じでしょうか。
なお走馬灯を含め、多くの臨死体験において、人は強い幸福感や安心感を覚えるとの報告もあります。 生命の危機に際し、最期の段階ではパニックを生じないようにする仕組みが備わっているとする説もあります。