とりあえず危機感煽るついでに若者でも叩いておくか… 「若者の○○離れ」
「若者の○○離れ」 とは、消費が落ち込み売上が低迷したり、人気が落ちるなどした商品やサービス、スポーツ、文化などを紹介するときに、マスコミがお題目、枕詞のように唱える成句、常套句のことです。 例えばクルマが売れないと 「若者のクルマ離れ」、テレビの視聴率が落ちると 「若者のテレビ離れ」、お酒が売れないと 「若者のアルコール離れ」、本が売れないと 「若者の活字離れ」 などといった形になります。
こうした言い回しは昔からありますし、また 「最近の若者は本を読まない」(活字離れ) などは、明治時代にも見られる、いつの時代にもある 「ありがちなセリフ」 となります (どう考えても江戸時代よりは明治時代、大正、昭和の若者の方が本をたくさん読んでいると思いますが…)。
ここらは若者の世代ではない上の世代が、「いまどきの若いモンは」 的な、古代エジプト時代からある世代間の対立や軋轢、老害 のような着想をベースとし、マスコミお得意の 「危機を煽る」 ような言い回しなのでしょう。 しかし実際に 1990年代のバブル崩壊以降の失われた10年、15年の間は、それ以前の高度経済成長期、バブル時代に比べて若者が 「お金を使わない」「ものを買わない」「それまでの世代に好まれてきたものに興味を示さない」 時代となっていて、それに伴いこうしたフレーズも、様々な ジャンル で頻出するようになりました。
なお、かつて若者に人気のあった物品は、そもそも 「その当時若者だった世代」(現在は若者ではない) に人気があっただけで、現在の若者は離れるも何も、最初から興味も関心も持っていなかった…若いかどうかじゃなく、その物品の単なる時代要請的な 需要 の増減に過ぎないとの、しごく当たり前の反論もあります。 「若者の文化や風俗」 だと思ったら、実は 「昭和の文化」「○○年代の風俗」 だったというわけです。
また物品の製造販売業者が若者のニーズを無視したり、顧客であると同時に社員や従業員でもある若者の安定した雇用やゆとりある給与を守らず、逆に 「製造販売業者側の若者離れ」 だと反対の定義をすることだってできるでしょう。 そもそもこうしたフレーズを使う新聞やテレビなどの既存メディアに若者が興味を示さなくなり、読者 や視聴者が中高年以上の年代となり、「お得意様を批判するのは難しい」 という時代になったとの指摘もあります。
マスコミの 「テンプレート的やっつけ記事」 を揶揄する中で
若者が離れてるもの一覧 テレビ離れ クルマ離れ 読書離れ 酒離れ 新聞離れ タバコ離れ 旅行離れ 活字離れ 理系離れ プロ野球離れ 恋愛離れ 雑誌離れ CD離れ 映画離れ ゲーセン離れ 腕時計離れ スポーツ離れ 献血離れ セックス離れ 日本酒離れ ブログ離れ アカデミー賞離れ 寿司にわさび、おでんにからし離れ マラソン離れ ガム離れ |
若者が離れてるもの一覧 コピペ |
こういったマスコミお得意の常套句、まるで テンプレート に沿って作られたかのような記事はたくさんありますが、中でも頻出する 「若者の○○離れ」 が、2009年10月頃に 掲示板 の 2ちゃんねる のニュース系の板などに 「若者が離れてるもの一覧」 といった 書き込み スタイルで登場。 翌2010年1月頃に コピペ 文章の形で各コミュニティに伝播します。
中には 「青少年の凶悪犯罪が減少している」 という報道やデータを元に、「若者の凶悪犯罪離れ」「殺人離れ」 なども登場し、日ごろマスコミが煽っている 「凶悪化する若者」 という意見と、あたかも若者が悪いことをしているかのような (少なくとも若い者はそう感じる)「若者の○○離れ」 という表現、その両方に強い違和感を覚え、「マスコミの語彙や表現力の貧困さ」「イメージ優先の紋切り型で目新しさやきちんとした調査や分析、裏づけのない記事」 を揶揄するような使い方となっています。
実際のところ、青少年の凶悪犯罪は一貫して減り続けていて、この言葉が登場した2010年前後には、戦後最低、あるいは統計を取り始めてから最低の レベル を毎年更新。 逆に、いわゆる団塊の世代 (1947年から1949年までに生まれたベビーブーム世代) を中心に、60代以上の老人らの凶悪犯罪が激増しています。
これは総認知件数比ではなく、人口あたり発生件数の数値なので、少子化による若者の減少や老人の増加とは関係がありません。 逆に云うと、60代以降の老人世代が若い頃に、「凶悪化する若者」 のムードを作った張本人だとも云えます。 極論すれば、若者が凶悪犯罪を起こすのではなく、この年代の人間が若い頃からずっと犯罪をより多く起こしているのです。 彼らに 「今の若い者は何をするかわからないから怖い」 などと云われる筋合いはない、お前が言うな と、若い世代が感じても当然でしょう。
その後2月になりコピペの流行と共にニュース速報板などでコピペ文章がアレンジされたり、報道ごとに情報が集積され、ガイドライン板に専用の スレッド 「若者の○○離れのガイドライン」(2010年2月8日) も登場。 改変版などが次々に作られるようになりあちこちに伝播するようになっています。 ああ、若者はいったい何処へと向かっているのだろうか…。
「若者の○○離れ」、じゃあどうすればいいのだとの声も
この種の記事のパターンでは、「若者の○○離れが進んでいる」「加速している」 と危機感を煽った後、「そんな状況を打破すべく新しい試みがなされている」 という文脈に続き、最後に 「若者がそれで振り向くか、今後が注目される」 と続いて全体が終了します。 「時代の変化」 とか 「好みの多様化」「その商品自体の魅力の減少」 などが挙げられる場合も多いのですが、それらをひっくるめて 「若者の○○離れ」「俺たちの若い頃はこうだったのに、今の若い世代は違う」 という 「便利な言葉」 なんでしょうね。
ただ一方で、実際に若者がお金を使わなくなっているのは事実で、その原因は若者の側にあるのではなく、その上の世代がもたらした 「不景気」「非正規雇用などによる低賃金」 でもあり、「お金を使わないのではなく、使えないのだ」「今の若者は物を欲しがらず淡白で元気がないと云われても、その状況を作ったのは おっさん 世代だろうに」 との批判も、もっともなところがあります。
生まれて物心ついた頃から不景気で、企業はリストラやコストカットに血道を上げ、内部留保 (減価償却もあるので全部がお金ではないにしろ) の積み増し努力を続けています。 老人は 「これからは成長ではなく、今あるものを分け合うことを考えよう」 としたり顔で達観めいた意見は云うものの、高齢者福祉の縮小にはおおむね強く反対し、若者向けの支援には無関心です。
そもそも経済が成長し今日より明日、明日より明後日が豊かだと思えるからこそ、今持っているお金 (ゆとり) を分け合えるわけで、給料日をまたいでもきちんと賃金が貰えるかわからない、来年に仕事があるかわからないでは、分け合うどころか、少ないお金や仕事の奪い合いが起こるだけでしょう。 そしてそれをずっと見て育った若者が、将来に不安を感じ生活コストを削減して貯蓄に回すのを 「悪」 だと、社会の指導層にある人たちが 叩く 権利があるのでしょうか。
また新しいものを買ったら古いものを捨てなくてはなりませんが、分別だリサイクル料金だ廃棄費用だエコだと云われたら、消費や買い替えが悪いことのようにも思えてきます。 さらにテレビをつければ激安、価格破壊、デフレだ不景気だ不況だ節約だエコだのニュースや報道があふれているのに、お金を使わなかったら 「若者の○○離れ」「モノを買わない」「嫌消費世代だ」「景気悪化の元凶」 では、じゃあどうすればいいのだとの意見は、なるほどとも思ってしまいます。
「古い物」 から離れているだけ、いや、そもそも近づいてすらいない
世代間の軋轢はいつの時代にもあるのでしょうが、とりわけ 戦前・戦後の区切りの世代と、バブル景気の前と後の世代とでは、社会情勢があまりに激変していて、その軋轢も世代論に留まらないものがあります。 価値観が激変し、以前は良いとされていたものが悪くなり、悪かったものが善とされるケースが多いからです。
若者が離れているのは古い物が多く、離れるも何も、最初から近づいてすらいない場合が多いものです。 そもそも若者が新しい物に興味を示して接近し、古い物に近づかなくなるのは、ある意味で当然とも云えます。 逆におっさんおばさん世代には、新しいものを避ける傾向だってあるでしょう。
「若者の○○離れ」 を喧伝するマスコミ側の思惑ともども、こうした言い回し自体に、ほとんど意味はないのではないかと思います。 ミもフタもありませんが、お得意様である中高年から老人世代に媚を売り、無意味な情報を垂れ流すことでお金を稼ぐマスコミの 「慣用表現」 を、こうしてことさらに解説、分析してみせるのも、これまた無駄に無駄を重ねる、まことに無意味なことなのかも知れません。
「若者の○○離れ」…こうした言葉がギャグとして認識され、ネタ として流行っているのは、若者の側がそれをちゃんと分かっているからではないでしょうか。