人生いくばくぞ… 「メメント・モリ」
「メメント・モリ」(memento mori) とは、「いつか死が訪れることを忘れるな」 といった意味のラテン語の言葉です。 古代ローマ時代、戦勝パレードで絶頂にある凱旋将軍の傍らにあって、「楽しめる今を楽しみましょう、人生何があるかわかりません」 あるいは 「今日は最高の日ですが、明日には絶望があるかも知れません」 といった意味の警句として 「メメント・モリ」 を述べる使用人の言葉がそのルーツとも云われています。
生と死が隣り合わせの戦場を駆け抜ける将軍や兵士にとって、それは 「生還した今はひと時の安らぎを楽しみましょう」 という慰めであり、また次の戦場へ向け慢心を戒める言葉でもあったのでしょう。 禍福は糾える縄の如し、雨の日があれば晴れの日もある、ひと時の幸せや 不幸 に一喜一憂しても仕方ないという部分もあるでしょう。
創作物においては、直接的にこの言葉やそれを象徴するものを描くことがあります。 例えば幸せそうな若いカップルの傍らにガイコツがあるとか (ヴァニタス)、美術的な様式に 「死の舞踏」 とか 「涅槃図」「九相図」 もあります (後述します)。 現代においてもホラー映画やいわゆるスプラッター映画などが一定周期でブームになったり一部の人々の心を掴む部分にも、怖いもの見たさ以外の人間の根っこの部分で共通するものがあるのかも知れません。
今を楽しもう、明日はわからないのだから
似たような 概念 や言葉は、古今東西さまざまなものがあります。 多くの日本人になじみのあるものと云えば、三国志の人気武将、曹操が詠んだとされる 「酒に対してまさに歌うべし 人生幾ばくぞ」(共に酒を酌み交わし歌い楽しもう、人生は短い) があります。
河北を平らげ天下を平定すべく数十万の大軍を擁して南下をはじめた曹操が、宿敵 孫権・劉備連合軍と雌雄を決する三国志前半のクライマックス、赤壁の戦い。 その決戦前夜、自らの 勝利 を確信し酒宴の席で将兵らを鼓舞するために、この歌を詠んだとされます。 その後の曹操の大敗を考えると、このエピソードはある種の 死亡フラグ のような感じもしますが、絶頂から奈落の底に突き落とされる物語の流れの中で、前後に絶妙なコントラストをなす名場面のひとつといってよいでしょう。
浮世のはかなさ、時の流れの早さ、人生の短さ、誰にも必ず訪れる死という存在、そして魂の浄化や救済。 これらは多くの人が感じるものなのでしょうし、モチーフ としてのそれは、様々な宗教や文化・芸術から読み取ることもできます。 日本でも、ゴンドラの歌 (いのち短し恋せよ乙女) がありますし、誰もが持つ根源的な悩みや憂い、諦観を指し示すわかりやすい言葉の一つと云えるのでしょう。
「死を忘れるな」 の様々な意味
なおキリスト教をはじめいくつかの宗教の世界では、元々現世は苦しい世界であり、生もまた苦しく、いずれは最後の審判によって滅ぶ儚いもの・かりそめの世界であり、罪を犯さず善行を積むことで死後に幸せな本当の命 (永遠 に続く天国・極楽での生活) が待っている、そのための準備をせよとの考え方があります。
その場合の 「メメント・モリ」 や 「死を忘れるな」 という言葉は、意味が大きく変わるものとなるでしょう。 すなわち今を楽しみ過ぎること、一時的な快楽を求め享楽にふけってしまうと来世では地獄行きですから、生きている間は慎ましく暮らせ、我慢しろ、この世の苦しみなど死後に天国で得られる永遠の幸福に比べれば取るに足らない短いものだというような、ほとんど正反対のような意味になります。
様々な絵画などでこうした考え方を視覚的に表したものでは、骸骨や骸骨のような姿をした死神がその代表格でしょう。 愛を語りあい幸せそうにしている若い男女の足元に骸骨があるとか、背後に死神っぽい影があるなどはその端的な例です。 これらは 「ヴァニタス」 と呼ばれることもあります。 また中世ヨーロッパで流布した寓話やそれを元にした絵画や彫刻に 「死の舞踏」 があります。 死の恐怖に踊り狂うしかない権力者や民衆を描いたもので、身分や貧富の差に関わらず死は平等に訪れるとの戒めとなっています。 これはペスト (黒死病) の流行とともに広く人々の間で語り継がれることとなっており、音楽作品などにも影響を与えています。 それ以外にも、体の一部が骨になっている像や、極端なものでは腐乱し虫がわき一部白骨化し朽ち果てる死体を彫像や墓石にしているようなケース (トランジ) もあります。
東洋にもそこまで生々しいものではないものの、釈迦の入滅をあらわす 「涅槃仏」(横臥像) もありますし、同じ仏画で日本のグロいものでは、小野小町や檀林皇后ら絶世の美女を対象とした 「九相図」(死後肉体が朽ち果てる様を9段階に分けて写実的に描いたもの) もあります。 もっと古いものでは、古事記に記された日本神話のイザナギとイザナミのエピソードで、大やけどを負って死んだイザナミをイザナギが黄泉国に訪問して再会するものがあります。 その際、「見るな」 と戒められたイザナミの描写はやたら細かく、国生みの神をそこまでひどく書かなくてもいいじゃんと思うほどのあんまりな描写で (腐乱死体の描写そのもの)、人間にとって、あるいは個々の生命にとって死が避けがたいものであるからこそ、同じような思想や考え方、言葉や表現が生まれ、そして伝わっているのでしょう。
なお似ているようで似てないようで、やっぱり少しは似てる感じの考え方に 「刹那主義」(せつなしゅぎ) という言葉もあります。 こちらも言葉が世俗化する中で意味にはかなり幅があり、「将来のことなど全く考えず今だけ楽しければそれでいいという考え方」 という否定的・ネガティブ な考え方がされる場合もあれば、「未来などどうなるかわからないのだから今を一生懸命に生きることこそが大切だ」 との前向きで肯定的・ポジティブ な受け取り方をする場合もあります。
ただしこれらには 「今を楽しめ」「今を大切にせよ」 という意味では 「メメント・モリ」 と類似する点がありますが、「未来」 あるいはその最終点である 「死」 について直接的な戒めがないか弱い点で、少々異なるものだとも云えるでしょう。 これは 「カルペ・ディエム」(その日を摘め) にもその傾向がありますが、いずれにせよその裏側には必ず 「いつか終わりが来るよね」 という無常が横たわっていて、死が避けられない以上、いつの世の人間をも捉えて離さないものなのでしょう。