不快感を覚える私は正しく、与えるあなたが悪い… 「清潔感」
「清潔感」 とは、ある程度の客観的・社会的な基準に基づきながらも、人や物が清潔かどうか、望ましい状態であるかどうかを見た目だけで判断し、そこから受ける印象や お気持ち をひたすら主観的に表現する言葉です。
ある人にとって好ましく感じられない身だしなみや行動パターン、もっと云えば、「個性」 を 「清潔感がない」 とし、「清潔感を得る努力をしない方に問題があるのだ」 とすり替えて、自分の否定的な感情を正当化し、さらにはそれによって不快な思いをさせられていると自らを被害者にできる言葉でもあります。 この場合はひたすら個人の印象のみをあらわす言葉となり、現在はこちらの使い方が圧倒的に多いでしょう。
「清潔感がない」 は 「不快感がある」「生理的に無理」 と同義であり、実際に対象が客観的に衛生的で清潔かどうかとはほとんど関係がなく、「キモイ」 や 「だらしない」「ブサイク」 などと同じ極めて主観的な意味となります。 逆の 「清潔感がある」 は、「衛生的で清潔だ」 あるいは 「清潔っぽく見える」 という意味ではほとんどなく、「自分にとって好ましい状態や相手だ」 という意味になります。
好みの相手なら、どれだけ不潔でも何となく許される
例えば自分が好きな相手、好ましく思える相手、あるいは 美人や イケメン なら、多少不潔でも不潔だと思われる行為をしていても清潔感をさほど失いませんし、不快感も生じません。 もちろん潔癖症的な人もいて、相手が誰であれ不潔な状態を許せないという人もいますが、そのような人が自分が嫌いな相手、あまり好ましく思えない相手 (ブス やブサイク、ブ男などの 非モテ) の風呂上りで全身消毒済みの姿を見ても、別に清潔感を感じて好ましさを覚えることはなく、結局清潔感が感じられないと判断することもあるでしょう。
イケメンなら無精ひげやぼさぼさ髪、たるんだTシャツ姿も 「ナチュラルで素敵」 になりますし、そうでない人はひげをしっかり剃りスベスベ肌でヘアスタイルと服装をばっちり決めていても 「キモイ」「清潔感がない」 と判断され評価は変わりません。 これは男女を入れ替えても同じです。
本来なら 「私はこの人が嫌いだ」「不快だ」 と自らの主観を述べれば良いだけの話ですが、そこに 「清潔感がない」 という、何やら客観的で第三者的な判断基準らしきものがありそうな話を持ち出すのは、生まれながらの容姿で人を判断すること (ルッキズム) が避けられがちな世相の中にあって、「清潔感は本人の努力次第で得られるもの」 という暗黙の了解があるからです。
その結果、清潔感がない人は努力不足、自己責任となり、「問題があるのは見た目や好みで他人を判断する私ではなく、私に不快な思いをさせる清潔感のない相手だ」 と責任転嫁できます。 これは前述した 「キモイ」 といった言葉と基本的には同一のものです。 「悪いのは自分ではなく、キモイあいつだ」 というわけです。
これは時代性も影響していて、一昔前、あるいは昭和の頃は、多少の不潔さやずぼらさ、だらしなさは、むしろ野性的でワイルド、場合によっては ポジティブ なイメージを持たれるような空気すらありました。 例えば1970年代あたりの青春・若者向けのドラマなどでは、ぼさぼさ頭で服もヨレヨレ、すね毛もあり、下駄やサンダル履きで街を闊歩する風来坊のような 主人公 が結構いて、見た目が小ざっぱりしておしゃれに気を遣うような男性はむしろいけ好かない悪役に多かったものです。
そこには不潔・清潔だけでなく、本音と建て前、天然と養殖、自然と人工、我が道を行く・周囲の顔色を伺うといった相反する内面に対する価値観の投影もあり、見た目を取り繕うような清潔感が人を評価する大きな要素では、必ずしもありませんでした。 これはより長い目で見ると、それこそ明治時代の西洋かぶれのハイカラ (高襟) とそのアンチテーゼとしてのバンカラ (蛮襟) にも連なる 「外見ではなく中身が肝要」 という精神性から来るものでしょう。
しかしその後、1980年代から90年代にかけ日本が豊かになり身だしなみに気を付けることが大きな要素となると、ぼさぼさ頭の風来坊はムダ毛を処理しおしゃれなブランド服に身を包んだトレンディードラマの主人公のような価値観と切り替わっていきます。 その後は空気清浄機だの抗菌ブームだの、とにかく清潔できれいでツルツルが目指すものとして当たり前になり、やがて最低限の条件になるまでに定着します。 これは人間だけではなく、例えば泥付きの大根よりキレイに洗浄されてラップやパック詰めされた野菜の方が人気が出たり、社会全体に清潔感至上主義的な価値観がどんどん広まることになっています。
「清潔感がない」 と 「キモイ」 は似た者同士
一般に おたく な人や、コミュニケーション能力に乏しく表情も暗い人 (いわゆる 根暗 や 陰キャ)、中高年男性 (おっさん) は、「清潔感がない」 と云われがちです。 今どき風呂くらい誰でも毎日入っているでしょうし、肩にフケが積もってるような人もいませんし、服だって病的に無頓着な人でなければ、外出時に汚れたり異臭を放つようなヨレヨレのものを着ている人などほとんどいないでしょう。
それでもことさらに 「清潔感」 という人によって異なるあやふやな基準で他人を判断するのは 「容姿で人を判断すること」(ルッキズム) が時代の変化とともに人権や社会的な公平さから批判されがちな行為となったため、それらしい言葉にすり替えているだけなのでしょう。 清潔感で他人をあれこれ批判することもルッキズム批判や多様性によってやや使いづらくなると、さらに自分を被害者ポジションにした 「怖い」 なども使われるケースが増えています。
とはいえ、では何と表現したらいいのか…
本来なら見た目で人を判断すべきではないでしょう。 しかしどうしても好みで合う合わないはありますし、第一印象のイメージが理屈ではなく感情の部分で引っ掛かり受け入れられないケースだってあります。 もちろん頭の中で考える分には自由ですが、それを口に出したり文章にして外に出したら、それなりの責任がついて回るということなのでしょう。
小さな子供ならいざ知らず、大人になって 「あなたは嫌いだ」「見た目が最悪だ」 と面と向かって他人に云ったり仲間内で他人の容姿をいじったりジャッジする必要があるのかどうかはともかく、それとなく伝える必要がある場合には 「清潔感」 は便利な言葉でもあります。 「あなたが悪いのではなく、ちょっとした身だしなみの問題だ」 との受け取り方だってできるからです。 自らの保身のためのきれいごとではなく、相手の気持ちに配慮したつもりの善意な使い方だってあるのが、この言葉の問題の根深さです。
適切な距離感を持つつつ清潔感と付き合う
ともあれ、この 「清潔感」 という便利な言葉は個人間の会話だけでなく、就職活動や様々な人と人との交わりの中で 「もっとも重要視すべき要素」 として扱われがちであり、社会に出て生活している人であれば、これと無関係でいられる人はいないでしょう。 体形や肌の状態、髪型、表情やしゃべり方など、特段のこだわりがなく大きな負担にもならないのであれば、それとなく周囲に合わせる柔軟さは生きる上での知恵でしょう。 また好き嫌いや差別感情は誰でも多かれ少なかれ持っているものなので、もし誰かに対してそう感じたとしても、黙っていればいいだけです。
他人に清潔感を過剰に求めず、自らは世の中で清潔感があるとされる お約束 をなるべく守ることで、円滑な人間関係が創れるようになるといいですね。 そして自分にそれが可能であると思えるのなら、運が良いのだと思える謙虚さが必要かもしれません。 たぶん、1日100回お風呂に入って全身アルコール消毒してファッション通販サイトで奨められた服でフルコーディネートしても清潔感とやらを得られない人は、思ったより多く存在するはずですから。 そしてそれは、人と人とに相性がある以上、誰だって 環境 次第で当事者になりかねない問題です。
誉め言葉としての 「清潔感がある」 は使っても、誰かを批判したり貶す目的で 「清潔感がない」 とは、云わないようにしたいものです。 また自分が聖人君子・正義の味方にでもなったつもりで声高に他人の差別を糾弾する前に、清潔感とやらで他人の容姿いじりや差別をしていないか、自問自答して自省できる謙虚さは持ちたいものです。 難しいですけれど。