「根が暗い」 から 「暗くて危険なヤツ」 へ…負のレッテル 「ネクラ」
根暗?他人を根暗呼ばわりして笑ってる方こそ根が暗くない? (寐津菟かき子) |
「ネクラ」 あるいは 「根暗」 とは、本来は 「性格の根が暗い」 といった意味の言葉です。 一見明るく見えるけれど実は根っこの部分は暗い、わりと根に持つタイプ (恨みつらみを忘れないでいつまでも覚えてる)、表と裏の顔があるといった ニュアンス で使われていました。 もっぱら自称する 概念 で、表と裏のギャップの面白みを誘う 自虐的 なギャグのような扱いでした。
元々はラジオの深夜放送の会話の中で生まれた言葉とされ、TBSラジオで放送された 「パックインミュージック」 の野沢那智さん、白石冬美さん (金曜担当パーソナリティ/ ナチチャコパック/ 1967年8月〜1982年7月) の会話の中で触れられたのが初出とされます。
一方、同じく深夜放送の 「オールナイトニッポン」(木曜担当/ 1976年10月〜1983年9月/ ニッポン放送) や昼のテレビ番組 「笑っていいとも!」(1982年10月〜2014年3月/ フジテレビ) で活躍していたタレントのタモリさんが、ラジオもしくはテレビで自分を評して 「実は根が暗い」 と発言したのが発端との話もあります。
言葉の初出や 元ネタ はともかく、当時ラジオの深夜放送は若者の間で絶大な人気があり、この2番組と文化放送の 「セイ!ヤング」 は御三家などと呼ばれていて、そこで交わされる話題や面白い言い回し、言葉などはそのまま若者の言葉となり、あるいは熱心な リスナー の居住地域ごとに流行語になるような場合もありました。
ラジオの深夜放送やテレビを通じて若者に広がる 「根暗」
「根暗」 も同じように一部で 「人の性格をわかりやすくあらわす言葉」 として流布。 とくにタモリさんはテレビ番組での活動も活発で、自らが作った様々な言葉や流行語で人気となっていたこと、その後 「根暗」 の対義語としての 「根明」「ネアカ」(根っから明るい、影日向・裏表のない天真爛漫で明るい性格) が登場したこともあり使い勝手も向上し、80年代流行語の代表格のような存在となりました。 その後も相当期間にわたって使われ続け、実質的な 「新しい日本語」 のような扱いにもなったのでした。
ちなみに 筆者 は深夜放送やテレビ番組が好きで、当時ナチチャコパックもタモリさんが出演するラジオやテレビ番組もどちらも楽しく視聴していましたが、こと 「根暗」 についての記憶は、タモリさんの印象は残っていますが、ナチチャコパックの印象はぼんやりです。 発端はともかく、この言葉が流行し定着したのはタモリさんの番組からだと云って良いかと思います。 とくにこの当時の 「笑っていいとも!」 の人気と影響力は、ここで改めて申し上げるまでもないでしょう。
学校や職場で他人をイメージだけで侮蔑・罵倒する負のレッテルとして
前述の通りこの言葉は、「こう見えて実は俺、根は暗いんだ」 などと仲間内で自称する概念でもありました。 しかし 「ネアカ・ネクラ」 という人を分類するセットの言葉となったことで自称以外の使い方が増え、他人を見た目のイメージだけで侮蔑・罵倒する負のレッテルとしても認識され、ほどなくしてそちらの使い方が実質的な意味になっています。 学校や職場で、「あいつは明るいフリをしているが実は根が暗い嫌な奴だ」 さらにはシンプルに 「根っから暗い」「暗い奴」 といった使い方への変化です。
「ネクラ扱い」 のターゲットになりがちなのは、外見的にはおとなしそうな容姿や 地味 な髪型、トレンドから遅れた服を着ている人、極端に太っていたり痩せている人、たんに メガネ をかけているだけの人まで様々です。 性格的には、内向的でコミュニケーションが苦手であまりしゃべらない人、真面目でコツコツやるタイプ、真剣に努力したり頑張る人などがネクラ扱いされがちでした。 さらには1983年に登場して使われるようになった 「おたく」 という概念が広まり、おたくな人が好みそうなインドアな 趣味 (家で アニメ を見る、プラモデルなどの模型製作や切手をはじめとするコレクション、読書など) をしているだけで、「あいつはネクラなやつだ」 との云い方がされました。
そこにあるのは、単に 「根が暗い」 という意味だけではなく、何から何まで暗いがさらに根っこにもどす黒い何かがある、人を 呪い 不幸 を願っているような、自分たちとは違う負の存在だとの極端に ネガティブ な、ただひたすらに他者を貶めるためのイメージと使い方です。
「ネアカはテニス・ネクラは卓球」 意味不明のレッテル合戦
またネアカ・ネクラといった対立軸の中で、それぞれに該当する行動や趣味の分類も、この言葉が流行する中で様々に作られ、テレビや雑誌などのメディアで面白おかしく広められました。 それはいかにもおたくっぽい趣味やファッションだけに留まらず、例えばスポーツなら 「ネアカはテニス・ネクラは卓球」 とか、休日の過ごし方なら 「ネアカは海・ネクラは山」「ネアカはサーフィン・スキー (サーフ&スノー)・ネクラはキャンプ」 などなど、ありとあらゆるものに当てはめるようになりました。 そしてそれはすぐに 「ネクラが好きそうなもの」 から 「これが好きならネクラだ」 との意味の逆転が起こり広まります。
これは同じくタモリさんの 「卓球は根暗」 という当時の ネタ から派生したもので、すぐにお笑いネタから離れ、他人を嘲笑し差別するために悪用されました。 もちろんこの場合は、「ネアカは優れている、ネクラは劣っていて、ダサイ・モテない」 という価値観とセットになるもので、学校、とくに大学あたりではネクラとされたサークル活動の勧誘に深刻な影響を与えるものでもありました (後にタモリさんは謝罪し、日本卓球協会に 1,000万円の寄付をしています)。
その後も 「この趣味をしていたらネアカ」「これが好きだとネクラ」 といった偏見に基づく属性が 「ネアカ・ネクラを判別する方法」 として様々なものにつけられ、例えば 「アニメ見てそう」「切手のコレクションが家にありそう」「鉄道模型集めてそう」「休みの日は昆虫採集してそう」「アマチュア無線とかしてそう」「ポエムとか書いてそう」 などといった云いまわしは、言外に 「あいつはネクラだ」「キモい やつだ」「ダサくてダメなやつだ」「どれだけバカにして叩いても構わないやつだ」 といった意味で使われるようになります。
「根暗だとモテない」 が支配する世界
加えて特筆すべき特徴としては、その基準に極めて大きく 「異性の目」 が取り入れられた点でしょう。 元からそうしたニュアンスはありましたが、「ネクラは異性からモテない」(女性から嫌われる・男性から避けられる) といった意味が必要以上に大きくなり、次第に固定化します。
1980年代から1990年代、景気が上昇し後にはバブルにまで至るこの時期、メディアの後押しもあり恋愛や異性にモテることは若者にとって最大関心事のような扱いになっていました。 恋愛のハウツー本やデートマニュアル本などが多数出版され、そうした情報が掲載された若者雑誌やファッション誌も次々に創刊して飛ぶように売れていました。 こうした流れの中、「根暗男子・根暗女子」 は異性から避けられる忌むべき存在とされました。
実際は異性の目というよりは、異性の目を気にする同性からの マウント にしか過ぎなかった面もありますが、「根暗と思われたり、根暗と一緒にいると異性から避けられる」 との強迫観念も手伝い、行き過ぎた忌避感情や同調圧力が増大し続けた点は、いくら強調してもしすぎることはないでしょう。 恋愛至上主義の世界では根暗は最底辺の存在だとみなされ、そうした人やそうした人が好むとされた趣味は、面白半分にどれだけ笑いものにしても叩いても良いものとされました。
1988年の 「連続幼女誘拐殺人事件」
1988年から翌年にかけて、東京・埼玉で連続幼女誘拐殺人事件が起こりました。 逮捕された宮崎勤死刑囚 (執行済み) のいかにも性格が暗そうに見える容貌や、自室にうずたかく積み上げられた ビデオ の録画済みテープ、コミケ に サークル参加 していたことなどが次々に報道され、その偏った報道内容から、「おたくの犯罪」 として社会や人々に強く 認知 されるようになった事件です。
この事件と犯人の姿は、元から若者の間で侮蔑的なレッテルとして広がっていた 「ネクラ」 や 「おたく」 に決定的な負のイメージをもたらすことになりました。 「ネクラなやつは不気味だ」「おたくは キモイ」 といった 「不快ではあるが実害はないどうでも良い存在」(視界に入らなければいい) から、「ネクラなおたくは何をするか分からない犯罪者予備軍」(積極的に駆除すべき対象) という、不快な上に危険な、モンスター・社会の敵としてのイメージです。 そのような空気が大手メディアの洪水のような報道によって社会全体に広がることなり、当時のおたくな人たちへのバッシングは相当なものがありました。 これはその後、「おたく暗黒時代」 などと呼ばれるようになりました。
また先述した恋愛至上主義的な考え方に立てば、この不可解で理解しづらい猟奇的な事件が、あまりにも簡単・容易に説明できる点もイメージ悪化に拍車をかけました。 すなわち 「恋愛至上主義の世界で最底辺の根暗なオタク」 が 「まともな女性に相手にされないので抵抗できない幼女を手にかけた」 という図式です。 これはマスコミのセンセーショナルで執拗な報道によって繰り返し社会に刷り込まれ、「こういう連中は ロリコン と呼ばれ増え続けている」 との文脈で危機感も 煽られ、その後の 児童ポルノ禁止法 における議論でも有識者や政治家などの口から何度もこの理屈が自明のものとして語られるなど、その悪影響は今も続いています。
またこうした文脈は前後して 「現実の女性ではなくアニメや ゲーム といった 二次元 の キャラ に逃避している」(二次コン) という論調とも影響し合います。 ロリ志向というレッテルも手伝い、「いい年をしてマンガやアニメなどに執着する子供じみた幼稚で未成熟なやつら」 というイメージもよる強く広がります。 二次コンが複雑なのは、外部からの一方的なレッテルだけでなく、当の おたく や 非モテ の側の意見としてもかなりカジュアルに語られている点でしょう。 これは 露悪的・自虐的なあくまで皮相的な意見や、身内に向けたある種の 「非モテ自慢」 が多かったりもするのですが、そうでない人も当然ながらいて、おたく人口が急激に膨張する中、様々なハレーションを起こしているとも云えるでしょう。
「非リア充」「陰キャ」 など、負のレッテルの再生産は続く
その後、こうした言葉の新しい言い回しとして、非リア充・リア終 (リアルな生活が充実していない)・リア充 (充実している) といった云いまわしや、陰キャ (陰気なキャラ)・陽キャ (陽気なキャラ) といった云いまわしも登場。 いずれも最初の定義はともかく、基本的にはコミュニケーション能力のあるなし、見た目のイメージから優劣を決めつける意味で使われるようになっています。
いわゆるスクールカーストの中での序列争いや、いじめ、マウント行為など、人の優劣をことさらに決めつける行為や言葉が次々に生まれ使われ、その結果傷つく人も生まれるといったサイクルを、ずっと繰り返しているのだなぁという感じがしてきますね。 しかも当初はおおむね自虐表現として使われ始め、その後他者への負のレッテルとなる点も似ています。 いわゆる 「言葉狩り」 とされる行為が、いかに無意味なことかも感じられます。 単に別の言葉に変わるだけですから。
掲示板 2ちゃんねる が登場 (1999年) し、ネットでの他人に対する 叩き行為 や様々な負のレッテルが広がると、「ネットの闇」「差別の温床」「ネットを規制せよ」 などと大手メディアや有識者らがことさら問題視し、敵視する風潮があります。 ネットがない時代や、ごく一部だけが使っていた時代 (パソ通 など) を知っている筆者から見ると、「何がネットの闇だよ、おまえが言うな、今さらよく言うわ」 という感想しかわいてきません。
確かにネットや掲示板での度を過ぎたバッシングや負のレッテルの流布には問題がありますし、一人一人がよりよいネットの使い方を考え、自らを律する必要があるでしょう。 しかしネットがない時代のスクールカースト上位やメディアが発するネクラやらオタクやらの負のレッテルに、レッテルを貼られた側は何ら対抗措置も取れませんでした。 反論でもしようものなら 「なに マジ になってんの?」「発狂 した」「キモイ」 などと云われ袋叩きです。
ネットでは、少なくともこちらに投げつけられたレッテルに対して反論したり、相手に同じような汚らしいレッテルを貼って反撃することもできます。 それが良いことだとはまったく云いませんが、上から目線で他者に苦言を呈する前に自分の言動を顧みて反省し改善する方が先でしょう。 そもそも先に手を出したのはどちらだと思っているんでしょうか。
ちなみに筆者はネアカ・リア充・陽キャ・コミュ強 と四拍子そろったスクカ上位の人気者です。