リア充の最下層にいる人たち… 「似非リア充」
「似非リア充」 とは、リア充 (日々のリアルな生活が充実している) の グループ の中で最下層にいる人、もしくは本人は 「リア充」 だと思い込んでいるけれど、実際はそうでない人を指す言葉です。 「偽リア充」「自称リア充」「プチリア充」 などと呼ぶ場合もあります。
「リア充」 は、ゲーム や ネット など 二次元 の中の世界ではなく、三次元 の現実世界が充実して幸せであること (端的には友人が多い人) を指し、自分はそうでないと感じている人が比較的多く集うネットの 掲示板 などで、自分を卑下する形で 「携帯電話などを使い掲示板にアクセスしてくる、自分たちとちょっと 趣味 や生活、人種が違うと感じられる人たち」 を指す言葉として生まれました。
その際、「リア充」 の対義 概念 として 非リア充 (非リア) や リア終、オタ充 (おたく な生活が充実)、ネト充 (ネットの生活が充実) などが生み出されましたが、ここでいう 「似非リア充」 は、そのいずれにも属さない、中途半端でもっとも悲惨な立場の人たちとして定義され、一部で嘲笑・罵倒語として、あるいは自らを省みる 自虐的 な言葉としても使われるようになりました。
一般的な言葉でいうと、「パシリ」(使いっ走り) とか 「空気」 なんて感じでしょうが、その立場や人間関係のストレスに耐えられず 「リア充の価値観」 から逃走もしくは卒業して、「オタ充になる」「ネト充になった」 なんて宣言する場合もあります。 なお 「リア充」 グループにいる時だけ強がったり調子に乗る小心者、「リア充の一員であること」 に必死な人を、とくに キョロ充 などと呼ぶ場合もあります。
無理してリア充のフリをするより、いっそ脱リア充した方が…
「リア充」 の重要な定義に恋人がいる、友人や知人が多く豊かな交友関係を持っているなどがあります。 小学校から中学、高校、大学と、若い頃には友人・交友関係をある意味でリセットできるチャンスがいくつもありますし、そのつど 「今度こそはリア充に」 と、涙ぐましい努力をする人は多いものです (こういう人は、中学時代には目立たず 地味 だったのに高校でいきなりヤンキーになるような人を罵倒する言葉の転用で、例えば高校からなら高校デビュー、大学からなら大学デビューなどと呼びます)。
中学生で不遇な毎日なら、バイトができて友人関係をリセットできる高校生活にあこがれ 「高校に入りさえすれば」 と期待に胸を膨らませ、高校生になれば 「大学に入りさえすれば俺だって」 と思い、そして 「社会人になれば」「女性の多い職場になれば」「○○になれば」「△△になれば」…。
しかし何度リセットしても、人気者はいつだって人気者、二番手は二番手、それ以外はそれ以外です。 必死に相手の意見や都合を受け入れ飲み会やコンパに参加して調子を合わせても、そのポジションはおいそれとは変わりません。 環境 に原因があるのではなく、自分にその理由があるからです。 気がついたらいつものように、テーブルの隅っこで愛想笑いをしているだけの存在になってしまいます。
そのうちそのポジションが自分だけでなく、周りの人にも広く 認知 され、重要な集まりには呼ばれなかったり、人数あわせ、便利な小間使いとしてのみ呼ばれたり、陰口を叩かれたり、本人にそれと分かるようなあからさまな嘲笑が行われたりもします。 とりわけ、性行為の経験者を装ってカッコつけていたのに実は 童貞 だったのがバレた、大人ぶってタバコや酒、夜遊びや ナンパ などをやっていると吹聴していたのが嘘だとバレた…なんてのが発端となり、一気に 「仲間はずれ」 にされたりするケースもあります。
そこまでして付き合う価値がこいつらにあるのか、ただ会ってどうでもいいその場限りの話をバカ騒ぎしながら延々とするのがそんなに人生にとって大切なことなのか…なんて思うと、「似非リア充」「偽リア充」 の必死ぶりが哀れにも感じられ、以前そのポジションにいた人や、最初からリア充になど一切興味のない人からは、その姿や言動が滑稽、あるいは痛々しくも見えてきます。
友人の数が多く明るくてスポーツなどを好むのが 「健全」 という価値観
世間一般の価値観がリア充の価値観と非常に似ていること (逆に おたく的な価値観は、無理解から生じた誤解により、現実から逃げている、不健全だ、暗いなどと、一方的に叩かれるケースが多い)、その価値観になじめない、もしくはあまり価値を感じない人にとっては、リア充の人気者や二番手などのトップグループには人的魅力やそれなりの価値を見出しても、それ以外の人たちや最底辺の人たちの行動や生活様式には価値を見出せない (あるいはいくらかの近親憎悪もある) のかも知れません。
まあ 筆者 も、参加しても空気になる飲み会やコンパに無理して出かけるより、とっとと家に帰って アニメ を見たりゲームをしたり、あるいは人数は少ないけれど価値観を 共有 できる趣味仲間とディープな話をしている方が楽しいので、ここらあたりは共感できるところですが、しかし年齢を重ねると、自分とまったく価値観の違う人間、何一つ意見が合わない異質な人間ともどんどんぶつかるのはとても有意義だと痛感するので、どっちともいえない感じです。
無理をする必要はないですが、マイペースばかりでも、あまり進歩がないのかも知れません。 もっとも、社会人となれば、そうした人たちと嫌でも付き合わなくてはならない時間がたくさんありますから (嫌な上司、取引先、顧客…)、友人関係で無理にそれを実現する必要はないかもしれません。
困った時に大勢の友人が助けてくれる…裏を返せば
引越しなどを行おうとすると、友人らが次々に手伝いに駆けつけてくれて、引越し業者を頼まなくても全てが終わってしまうような人が結構います。 困った時、助けて欲しい時に一肌脱いでくれる数多くの友人に囲まれたこういう境遇は、一般的にいってとても幸せなものでしょう。
しかし人間関係は、なんだかんだいってギブ&テイク。 例えば自分の引越しを手伝ってくれる友人が5人いるということは、その5人が引越しをする時には、わずらわしくとも自分だって駆けつけなくてはならないでしょう。
引越しに限らず、お誕生日会やクリスマスなどのパーティー、歓送迎会や冠婚葬祭 病気 のお見舞いや看病、さらに日々の悩み事の相談、どうでもよい メール やメッセージの返信などなど、人脈が広がれば広がるほどこれらに費やす時間はどんどん増えます。 そうした様々な 「助け合い」 や 「人間関係」「連絡」 に週末や余暇の大半や全てを費やすことになるのは、「一人が好きだ」「自分だけの時間が欲しい」 と思う人にとっては、非常に重荷でしょう。
確かに友人に囲まれ笑っている人たちは楽しそうですが、その陰には涙ぐましいまでの面倒でいつ終わるとも知れない人間関係の膨大な 「手続き」「ルーチンワーク」、そして 「ストレス」 の処理があるのです。 面倒だからと、自分のお誕生日会に来てくれた友人たちのお誕生日会に全く参加しなければ、次の年からは自分のお誕生日会にその友人たちも来てくれなくなるでしょうし、仕事とプライベートをあまりにドライに分けてしまうと、自分の仕事やプライベートが上手く行かない時、周囲も自分のそれを犠牲にしてまであなたを助けてはくれないでしょう。
上辺だけ見て、良いところだけ得るなんて都合の良い方法はありません。 「お祭り」 は楽しいですが、準備も後片付けも必要なのです。 お祭りのところだけ参加するなどといった自分勝手な行為を許さない人は、思った以上に多いと覚悟した方が良いでしょう。
「ともだち100人できるかな?」 …それって本当に 「友達」 なの?
現在のような極端な 「友達や仲間が何より大切で、その数は多いほど良い」「友達が少ない、友人がいない人生は貧しく、そういう人は人間として価値がない」 との価値観が若者の間に生じたのは戦後、それも高度成長期以降のことだと思いますが (その意味ではたかだか40年間程度の価値観)、そうした考えが広がったことにより、若者は幸せになれたのでしょうか。 そもそも本当の友達とは何なのでしょうか。
世の中にはいろいろな考え方や価値観がありますし、それらに触れるのはとても有意義です。 しかし友人が少ない=貧しく 不幸せ な人生という価値観のみがやたらと上位にきてしまい、それに囚われて身動きが取れない人や、溜めなくてよいストレスを溜めてる人も多いような気がするのは思い過ごしでしょうか。 本当に何でも話せ、お互いを尊重し合える親友が1人か2人いれば、あとはその都度移ろう知り合いが少々いるだけで豊かな人生が送れると筆者などは本気で思っているのですが。
割り切ると人生も楽しいものになると思うのですが、どうでしょうか。