昔も今も、神聖で汚れなきもの…? 「処女」
「処女」(しょじょ/ おとめ) とは、男性と性的な関係を結んだことのない女性、セックスの経験がない女性のことです。 英語の 「Virgin」 と同じもので、これをカタカナ化したバージン・ヴァージンと呼ぶこともあります。 他にもメイデン (Maiden)、生娘、初 (うぶ)、未通、童女、乙女、チェリー (Cherry)、膜あり と呼ぶ場合もあります。
男性と性行為を行った経験を持つものが対の 概念 となり、対義語として 非処女や経験者、経験済み、貫通、貫通済、中古、傷物、使用済、穢 (けがれ)、不浄 などとも呼ぶ場合もあります。 処女を尊ぶ人の中には、処女以外はみんな同じだとして、ヤリマン、サセ子、ビッチ、公衆便所 など、一般にふしだらな女性を指すための蔑称を、あえて使う場合もあります。 ただし性行為経験者であっても、見た目が ロリ っぽく純情可憐に見える場合は、明らかに非処女であっても 名誉処女 などと呼ぶ場合もあります。
処女が初めての性行為を行うことは、処女喪失 (ロストバージン) とか処女を捧げる、捨てる、奪われる、卒業するなどと呼びます。 このあたりの使い方は、男性の性行為未経験者を指す 童貞 とその関連用語とほとんど同じです (ただし処女の方がバリエーションが多く、かつ童貞のそれよりも先に使われています)。
なおキリスト教の世界では、ことさらに処女と呼ぶ場合 (定冠詞をつけた the Virgin など) は、イエスの母親、聖母マリアのみを直接的に指す場合もあります。 また the Virgin Queen (処女王) と云えば、生涯独身を貫いたエリザベス1世(Elizabeth I/ 1558年11月17日〜1603年3月24日) を指します。
根強い 「処女信仰」
一般的に男性は昔から処女を神聖視し、また 「処女信仰」 とでも呼ぶべき処女に高い付加価値を見出す考え方をする人が比較的多いものです。 貞操や清純、純潔、清楚を 尊い もの、守るべきものとするのも、基本的にはそうした考えと同じものでしょう。 また男性が社会の中心だった時代が長く続いたこともあり、歴史的、文化的、あるいは宗教的にも、「処女は尊いもの」 とする価値観が古今東西を問わず存在します。
これは取りも直さず、男性側から見た時に、「本当に自分の子供を産んでくれるのだろうな」「知らない間に自分以外の男性と交わり、自分以外の者の子供を身ごもったりしないだろうな」 との、「確実に自分の子孫を残す」「疑いようのない父性の確立」 という生物の本能としての意識が、そのバックボーンにあるからでしょう。 結婚 前の性行為が厳しく禁じられ、処女が美徳とされてきた時代が長く続いたのも、それが根本的な理由としてあるのだと思います。
またこうした考え方に根拠や正当性を持たせるため、神に仕えるもの (生贄を含む) は処女でなくてはならないとか、処女に神聖な力や特別な能力が備わっていると考えたり (性行為を行うと失われる)、罪がない、穢がないとの無罪性の象徴、あるいは神の花嫁、神の所有物として扱われる場合もあります (反対に悪魔と契約を結ぶと処女を失うとされ、魔女は非処女とされた)。
これが極端な形で歴史上の事件として現れる場合もあります。 処女を神の花嫁、神の所有物とする考え方により、罪を犯した処女や少女を罰することができない、処刑することができない法律が作られたり、それを回避するため、収監後に役人や兵士により 陵辱 (強姦・レイプ) をして処女を失わせ処刑するなどの行為も行われていました。 こうした例で歴史上有名なところでは、ローマ皇帝を差し置き権勢を誇って一族が処断されたルキウス・アエリウス・セイヤヌスの娘 (強姦後に絞首刑) がいます。
また百年戦争で活躍しフランスの国民的英雄となり、「オルレアンの乙女」 と呼ばれたジャンヌ・ダルクなども、捕縛後の異端裁判において処女かどうか (悪魔と契約したかどうか) が確かめられ、処女が確かめられると一旦は刑死を免れたものの、強姦後に男装を理由として火刑に処せられています (監獄の中での性的虐待については、様々な説があります)。
なぜ日本語では 「処女」 なのか
なおバージンが日本語で 「処女」 となっているのは漢語が元になっており、「処」=「所に居る」、すなわち同じ場所にとどまっている、生まれたままの場所、親元にいつまでもいる未婚の女性との意からとなります。 本来は単なる 「未婚の女性」 を指す言葉ですが、婚前交渉が禁じられていた時代や文化の中では、どちらの言葉も同じ意味として使われていたのですね。
有名な孫子 (兵法書 「孫子」 九地) に 「始めは処女のごとく、後に脱兎のごとし」(最初はじっとして弱々しく油断をさせるが、後には逃げるうさぎのように素早く機敏だ/ 始如処女後如脱兎) がありますが、武家を中心に兵法が広まる中、こうした言い回しを通じて、日本でもこの呼称が次第に定着するようになったようです。
ただし武士や貴族などはともかく庶民の間では、それほど処女性を尊ぶような風潮が定着していたわけではなく、また巫女など神に仕える女性も日本の場合は西欧のそれと違い、処女の考え方が 「操を守ること」 になかった点は、面白い違いです。
どうして 「童貞航海」 ではなく 「処女航海」 なのか
ところで初めての航海を処女航海、初めての作品を処女作などと呼ぶのは、生まれた場所から他の場所、あるいは世界に初めて行く、嫁ぐとの意で使われるようになった言葉ですが、英語ではそれぞれ Maiden voyage、Maiden work (あるいは First 〜) であり、処女というよりは乙女がふさわしい言葉でしょう。 処女も乙女もある程度以上の同じ ニュアンス を持つ言葉ですが、今日の日本において処女は Virgin 、すなわち 「性行為非経験女性」 のみに 限定 した使われ方がされていますので、必要以上に性的な意味が付加され、昔からの使い方、あるいは欧米のそれらとはちょっと言葉から受ける印象が違っている感じです。
ちなみに童貞航海とか童貞作と呼ばず女性名詞である処女を使うのはなぜなのかという話もありますが、これは単純にこれらの言葉が Virgin ではなく Maiden 由来だからでしょう。 また童貞は Virgin の1870年代前後の古い日本語訳であり、もともと男女の区別などなかったものの、後に日本においては男性非経験者だけを指す男性名詞な言葉に変わったので、Maiden voyage を日本語化する過程で女性限定である処女にすり替わったという経緯があったのかも知れません。
処女〇といった言い方にはこの他、人の手が入っていない森林を処女林 (Virgin forest)、前人未到の場所を処女地 (Virgin Soil) などと呼ぶケースがありますが、これらが当時の日本人の言語感覚として Maiden と Virgin が同じものであり、女性名詞こそが訳語あるいは日本語としてふさわしいと考えられたのかも知れません。
おたく の世界と 「処女」
アニメ や マンガ、ゲーム などに登場する創作上の キャラクター に対し、ファン が処女性を求めるケースは少なくありません。 しばしば おたく な人の 「非処女バッシング」「中古バッシング」 などが端的な例として挙げられますが、これは 「処女性への憧れ、絶対視」「純潔への憧憬」 というよりは、「非処女に対する嫌悪、蔑視」 と云う方が、正確なのかも知れません。 「処女が好き」 なのではなく、「非処女が嫌だ」 という訳です。
これはひとつには、「自分は新品 (童貞) なのに、相手が中古 (非処女) なのは許せない」 という理屈がベースになっているのでしょうし、自分がセックスを知らないので、それをすでに知っている相手と対等の付き合いができるか不安だといった身につまされる理由、さらにそれらが現実世界ではなく、設定 次第でどうとでもなる創作上、架空の 「理想が追求できる世界」 であえてやらないでいることに対する不快感、苛立ちもあるのでしょう。
「処女にこだわるなんて狭量で気持悪い」「膜のあるなし以外に見るべきものがあるのではないか」 とする女性もいますが、その女性側だって男性側に 「理想の男性像」 などで無茶で理不尽、分不相応な要求をするわけですし、こちらもお互い様でしょう。
とはいえここらは、自分が性的経験を経て 非童貞 となると 「お互い様」 となって全く気にしなくなったりもするものですし、ネット で触れられる処女の扱いには ネタ としての使い方もありますから、あまり追求しても仕方がないのかも知れません。
「セカンドバージン」 とは?
処女にせよ童貞にせよ、一度でも性行為を行い失ったら二度と戻らないものですが、それとは別に 「セカンドバージン」(セカンド処女、二度目の処女) との考え方を持つ人もいます。 これはもっぱら、アメリカなどのキリスト教団体などが実施している純潔運動の考え方の一つとして行われ、一度は性行為を行ったが、その後は 「結婚するまで性行為は行わない」 と自らに誓いを立て、生涯の伴侶のために操を守るとの意味となります。
非キリスト教の世界でも、夫を亡くした女性 (未亡人) がそのまま出家して尼さんとなり、その後生涯にわたって天国にいる夫にのみ操を捧げるといった形を取る場合がありますが、「再処女」 といった考え方はあまり発展してはいないようです。
一方 セカンド童貞 の場合は、こうした 「未来の伴侶に対する誓い」 のようなニュアンスはなく、単に異性と縁がなく時間ばかりが過ぎてしまった、あるいはこっぴどい失恋などによりトラウマが生じ、異性や異性との性行為に拒否反応を持つ人を主に指す言葉となっています。
ただしいずれも社会の共通認識になるほどの厳密な定義はなく、かなりあやふやな概念や言葉、あるいは俗語となっています。