何が問題で何が結論か、相手に任せて責任逃れ 「ヤクザ論法」
「ヤクザ論法」 あるいは 「チンピラ語法」 とは、ヤクザあるいは暴力団・反社 (反社会的勢力) の構成員などが、しばしば交渉の際に用いるとされる論法・語法のことです。 恫喝や脅迫といった直接的な脅しすかしや怒号・罵声を指すこともありますが、わざわざこの言葉を使う場合は、ヤクザ特有の法の網の目をかいくぐる狡猾な交渉話術を指すことが多いでしょう。
代表的なものに、明確な要求や解決法を、決して自分からは提示しないというものがあります。 「金を出せ」「出さなきゃ〇〇だぞ」 と口にしてしまうと恐喝や脅迫・強要になるため 「誠意を見せろ」「どうすれば良いか自分で考えろ」 などと云います。 相手がそれでお金を出しても、「こちらからは何もいってない、相手が勝手に金を出しただけだ」 と責任逃れもできてしまいます。
またこれは、罪逃れとして機能するだけでなく、後から自由に要求や解決法を動かせる、いくらでも解決を遅らせゴールを変化させられるものでもあります。 「金を出せ」「出しました」 ではそれで話が終わってしまいますが、「誠意を示せ」「お金を出します」 なら、その後に 「謝罪の気持ちは伝わった、じゃあ次は具体的にどう責任を取るかや」「金は出したが、その出し方では誠意が伝わらない」 と、いくらでも後出しで 「おかわり」 ができてしまいます。
またそもそも、「何が問題か」 を相手にぶん投げる論法もあります。 「わしが何でこんなに怒ってるか、お前はわからんのか?」「何が悪かったか、自分の胸に手を当ててよう考えてみいや」 といった言い方で、相手の罪悪感を刺激し、あるいは交渉相手が当然持つであろう 「次は何を言ってくるか」 という疑問を煙に巻き心構えを防ぎ、次の手を考える余地を奪う効果があります。 場合によってはヤクザ側が思いつかなかった思わぬ脅しの ネタ を、相手が恐怖のあまり勝手に教えてくれるかもしれません。
全てにおいて相手にボールを投げつけ続け、それによって決まったことの全てを 「自分で決めたこと」「自分の意思で選んだこと」 だと相手に思い込ませ、それが履行できなければ 「お前が自分でいうたことやないか」 と責め立てる。 謝ったりお金を払ったらそれが新しいイチャモンの出発点となってそこからまた新しい 「何が悪かったか自分で考えろ」 が始まる。 ずるずるといつまでも話が終わらず、ひたすら相手の不誠実な態度を責め立てる一方の議論になります。 そして自分が不利になったら、「今日はこのくらいで勘弁してやるわ」「誠意は受け取ったで」 などと相手を赦す寛大さを上から目線で示して自らのメンツを守り 勝利宣言 する。 率直にいって 詭弁 にすらならない幼稚で卑劣、論外な論ですが、威力を背景に相手を心理的に追い詰める効果は絶大でしょう。
1992年から施行された暴対法 (暴力団対策法) や各自治体によって定められた暴排条例 (暴力団排除条例) により、反社への利益供与は利益を得た反社側だけでなく、供与した被害者側の責任も問われるようになりました。 取引先や顧客に対して反社確認をすることが求められ、それをせずに取り引きして発覚した場合の社会的な非難も大きなものとなっています。 お金を出すなり一度要求に屈してしまったら、今度はそれを新しいゆすりのネタにして、さらにお金を要求されます。 一度弱みを握られると 一生 食い物にされるだけなので、当たり前の話ですが毅然と断る、警察などしかるべき機関に迅速に通報することが身を守るためには大切です。
ちなみに 「反社確認で問われて反社が反社だと正直に答えるわけがない」 としばしば揶揄される反社確認ですが、確認をして相手が 「反社じゃない」 と嘘をついたら詐欺罪に問うこともできますし、たとえ取引をしてしまっても、騙されたのだと被害者としての立場を形式的に失わないで済みます。 万が一に備えてきちんと文書で確認するのはとても大切です。
日常生活におけるヤクザ論法
こうした論法は、ヤクザやチンピラ以外でも使う人がいます。 何か不快なことがあった時、「それが不快だ」 と口にせずに 「何で私が怒ってるかわかる?」 と相手に問う。 分からないと答えたら 「えええーーーー?」 とわざとらしく大げさに驚いてみせたり 「とぼけるな」「しらばっくれるのはやめて」 と食い下がる。 「もしかしてこのこと?」 と相手が提示してもそれにも答えず 「それもあるけど、他にもあったよね」 と追及する。 質問に質問で返し話は堂々巡りで進展せず、それで根負けした相手が謝ると 「何で謝るの? 何か悪いことをしたの? それは何?」 とまた振り出しに戻る。 どうすれば解決するのか、何をしたら機嫌が直るのかも提示されず、追及された側はひたすら疲弊し、善良な人であればあるほど罪悪感を募らせ追い詰められることになります。
こうした不機嫌さを表に出すことで相手をコントロールしようとしたり、明確な回答を示さない (場合によっては本人ですら、なぜ自分が不快感を覚えたのか分からないし言語化もできない) ような相手とつき合うのは、並大抵の精神力では難しいでしょう。 相手が何らかの解決を求めているのではなく、単にいつまでも尽きることがない不快感を相手に押し付けて自分を優位に置こうとしているだけだからで、解決などまず望めないからです。 自分はコミュニケーションのためのコストを一切負担せず、いつまでも相手に譲歩を強いて マウント を取ることが目的なのでこれは当然です。 解決してしまってはそれで話が終わってしまいます。
友人知人ならそのような人とは縁を切れば良いだけですが、家族や勤務先にいるとなかなかそうもいかず、かなり辛い思いをしてしまうでしょう。 このあたりは性格や気質でもあるので本人の努力でどうこうできるものでもなく、お互いに 不幸 になっているケースはまま見られます。 人間誰しも自分を優位に置きたいと願うものなのでしょうが、それが行き過ぎた人との距離は適切に保って、自分の精神や心をまず守るよう心掛けたいものです。 それができるのは、最終的には自分だけなのですから。
2ちゃんねるにおける 「あるあるネタ」 と SNS 時代のヤクザ論法
時代を下ると ネット を通じた意見にも、同じような論法を使う人が増えてきました。 自分勝手な お気持ち による訳の分からない 他責・他罰的 な誹謗中傷を行う攻撃的な人たちです。 それに返信しても何が問題かを明確化せず、具体的な基準も一切示さず、質問に質問を返し、どうすれば良いのかも分かりません。 ひたすら質問を繰り返し相手の疲弊を狙う シーライオニング などもそうですが、つき合うだけ時間の無駄というものでしょう。
こうした論法については 掲示板 2ちゃんねる などにおいて、女性特有のねちねちとした追求にありがちな話として集められ、面白おかしく触れられていたものです。 とはいえ男性でもこうした論法を使う人はいますし、ある意味では男性性の極致のようなヤクザが使う論法でもあるので、あまり女性がどうの男性がどうのと決めつけてしまうのも的外れになる可能性があるでしょう。 性別の違いではなく、単に無責任で卑劣な人が使う論法だというだけです。
一方 ツイッター といった SNS などでは、いわゆる自称フェミニストらが 萌え っぽい キャラ や イラスト を合理的な理由もなく自分勝手な印象だけで口汚く批判する際に似たような論法が使われがちなため、後年は自称フェミニストの難癖や反論への対応傾向を指して使うこともあります。 その場合、繊細チンピラとかお気持ちヤクザと呼ぶこともあります。
日本は 表現の自由 があるので、個人の 感想 を述べるのはもちろん自由です。 思想信条の自由もあるので、あるイラストが エロ に見えようが見えまいが、それも個人の感性や好みによるもので自由です。 しかし裸体を描いたわけでも何でもない他人の創作物をエロいだの異常だの キモイ だのと公の場で罵倒し、まるで 児童ポルノ やセクハラかのように扱ったり、作者 や ファン を性犯罪者やその予備軍、差別主義者かのように 強い言葉 で批判し、時として規制まで要求するのなら、当事者からその根拠や明確な基準を求められたらそれに答える責任をもう少し持っていたっていいでしょう。
自分の主観的な感じ方だけを絶対視し、それに異を唱えられ具体的になぜそう思うのかの説明を求められても 「何で分からないのか」「勉強しろ」「とぼけるな」 と相手に責任を押しつけ見下して、根拠や基準は一切説明しない。 じゃあどうすれば良いのかと問われても 「自分で考えろ」、それでイラストが取り下げられるなどして批判されたら 「相手が勝手に取り下げただけ」 では、あまりに無責任です。 これではまるで、目が合った、肩が触れたで因縁をつけてきて、「誠意を見せろ」「相手が勝手に金を包んできただけ」 とうそぶくヤクザかチンピラの物言いと同じでしょう。
まさしく繊細チンピラとかお気持ちヤクザと呼ばれるゆえんですが、むしろ今どきのヤクザやチンピラの方が、まだもう少し筋の通ったマシな論で来るかもしれません。