支えてくれる人がいない場合はどうすれば…「〇〇が支えになってくれた」
「〇〇が支えになってくれた」 とは、何らかの困難に直面した時に、家族やパートナー、恋人や友人ら周囲の人々が寄り添って力を貸してくれた、物心いずれか、あるいは両面で自分を献身的に支えてくれたとの感謝の言葉です。 全く同じ意味で 「〇〇が寄り添ってくれた」「見守ってくれた」「励ましてくれた」 などのバリエーションもあります。
直面する困難は人によって様々です。 受験や就職、スポーツ大会への出場や資格取得といった多くの人生で見かけるありふれた壁やハードルもあれば、不慮の事故や 病気、災害、心身の障害、失業や借金、引きこもり や ニート になった、介護や家族問題、あるいは薬物やアルコール、ギャンブルに手を出し依存症になって全てを失ったまで多種多様です。 場合によっては物心ついた頃から家が貧乏だった、家族すらいなかった、周りの人々に裏切られ続けたなど、人生の大半が苦難の連続のようなケースもあるでしょう。
そうした困難に直面しながらも克服した、乗り越えた、あるいは乗り越える方向で前進しはじめた時にしばしば 「〇〇が支えになってくれた」 との感謝の言葉が、主に困難から抜け出せた人の体験談として、メディアなどに紹介される際に述べられたりします。 自伝や自伝的な作品において、逆境を乗り越えて立身出世するサクセス・ストーリーとして世に出る場合もあるでしょう。
なお困難の渦中にいる人物が女性で、異性のパートナーによってそれが救済されるという流れでは、実話風漫画に登場するありがち・ステレオタイプな存在として、とくに 「理解のある彼くん」 と呼ぶこともあります (後述します)。
助け合い・支え合いは尊いし大切だけど、それができない人は…
「〇〇が支えになってくれた」 という言葉自体は、困難に直面した人の周囲の人たちの温かさ、それによって困難を乗り越えられた人の喜び、感謝が感じられ、メディアで紹介されたものを見る人にとっても 「人って良いよね」「助け合いが大切だよね」 といった気持ちを喚起し、大変心地よいものでしょう。
しかし一方で、同じ困難にいままさに直面している人の中には、「俺にはそんな人はいない」「私には支えてくれるパートナーどころか話し相手すらいない」「コミュ障 で助けを求めることもできない」 との 「絶望」 を冷酷に突きつけるものにもなりかねません。 周囲に誰も支えてくれる人がいない人にとっては、「私は支えてもらえて乗り越えた」 との体験談は何の参考にも慰めにもならず、「借金作ったけど宝くじ当たって返せたわ」 とほとんど同じ、再現性皆無の夢物語の話でしょう。
とくに ネット においては親しい友人や恋人がいるだけで リア充 扱いされる空気もある中、懸命に支えてくれる身近な人間の存在自体がすでに十分に恵まれた状態であって、「いったいどこが困難に直面なのか」「配偶者や理解者がいる時点で イージーモード やん」「またパートナーが支えてくれたか、へー、よかったね (棒)」「恵まれた 環境 にある ぬるま湯人生のくせに被害者ポジションを取ろうとする欲深くガメツイやつ」 と揶揄したくもなるのでしょう。
また一部の依存症や傷病・介護などのケースでは、こうした声が 「周囲の人間は自分の生活を犠牲にしてでも困ってる人を助けて支えるべきだ」「少なくともその努力はしろ」 との社会的な圧力・価値観を家族や友人らに結果的に押し付け、増幅することにもなりかねないでしょう。 個人の幸せや人権を尊重しましょうという考えが広がる中、これでは昔ながらの 「家族のために献身的になれ」「夫や妻のために我慢しろ、自分を犠牲にしろ」 と一体何が違うのだとの違和感を覚える声も少なくありません。
「単なる生存バイアス」「感動ポルノだ」 との批判的見方も
「〇〇が支えになってくれた」 といった テンプレート 化した声は 「単なる生存バイアスではないのか」(生き残って声をあげることができる者の声のみを聞くことで歪む認知バイアスの一種、成功した生存者の意見だけで全体の判断をするのは誤りではないか)、もっといえばそうした困難と無縁の人たちが困難に打ち勝つ成功物語として暇つぶしに消費するだけの 「感動ポルノ」(娯楽としての安っぽい感動物語) ではないのか」 との批判もあります。
メディアの側がこうした声をことさら取り上げるのは、感動物語として好意的に見られ扱いやすいこと、様々な困難の当事者を主観的に取り上げることで社会的 テーマ を掘り下げているつもりになっているだけとの辛辣な批判もあります。
もっとも、「彼は困難に直面した、誰も助けてくれず野垂れ死にました」「おわり」 といった記事だけではどうしようもないので、孤独死などを客観的事実の羅列で報道するのならともかく、一つの事例を掘り下げストーリーとして構成する以上、安易な成功物語・恵まれた人の感動物語だと云われようとも、そうせざるを得ない状況だってあるのでしょう。
また自伝的な成功物語においては、「自分の力だけでは成功できなかった」 との謙虚さの発露だったり、あるいは多少意地悪に見れば、好印象を得るために謙虚さを装う意図もあるのかもしれません。
逆に 「支える人がいれば」 との云い方も
なおこれとは正反対となる 「もし周囲に話を聞いてくれる人がいれば」「誰か一人でも支える人がいれば」 といった問題提起の形で表現する言い回しもあります。 依存症による問題行動を繰り返す人とか孤独死など 「支える人がいなくて困難から脱することができなかった人」 を悔やむ文脈でよく使われる言葉です。 しかしこちらも 「〇〇が支えになってくれた」 とほぼ同様の問題を抱えており、メディアから発せられるケースでは、主観的・偽善的でほとんど何もいってないに等しい無意味な定型句、文字列でしょう。
人間誰だって過ちを犯しますし、不運 だとしかいいようのない災厄に見舞われることだって長い人生、一度や二度くらいはあるものでしょう。 そこからどうやって立ち直ったり元の生活を取り戻すか。 困難に直面した本人や周囲の人といった 「個人」 や 「家族」 に全ての責任を押し付けることが憚られるなら、制度や仕組みでどうにかできれば良いのでしょう。 しかしそれができないのなら、身も蓋もありませんが支える人の存在も含め、結局のところ 「運が良かった」「悪かった」 で全てが終わってしまう話のような気がします。
その意味では、家族や仲間など 「支えてくれるかもしれない人」(本当に支えてくれるかは分からない) がいる困難者に時として無用な期待を与え、そうした存在を持たない人には残酷な現実を突きつける 「〇〇が支えになってくれた」「支える人がいれば」 という定型句は、現状を変えるための行動を伴わない限りは、耳障りがよい口先だけのまことに罪深い言い回しなのかも知れません。
実話風物語にしばしば登場する 「理解のある彼くん」
様々な困難によって辛く 不幸 な人生を歩んだり 「生きづらさ」 を感じている女性が、良きパートナーの登場により救済され幸せになる物語を批判的に揶揄する言葉に 「理解のある彼くん」 があります。 もっぱら精神的な苦痛や社会との折り合いの悪さから辛い思いをしている女性に対し、「理解のある彼くん」 は干渉しすぎず優しすぎない距離感でずっと寄り添い、時折 「ハッとする」 ような新しい視点やものの考えを示して良い方向へと導いてくれます。
自分の苦しみや怒り、不満を共有しつつわがままも受け止めてくれる存在は、心が疲れている人間にとっては理想的なパートナーでしょう。 まして仕事ができない自分を経済的にも支えてくれるとなれば、文句の付け所がありません。
女性が 主人公 の女性向け実話風漫画にしばしばこうした男性が現れ、「今は理解のある彼くんのおかげで生きることに前向きになり、幸せに過ごしています」「気がついたら妊娠出産してこれからは子供のためにも自分らしく無理せず生きていきます」 といった形で物語が締めくくられることから、ありふれた物語、白馬の王子様物語を揶揄するような言い回しとして使われます。
とりわけ物語の構造として、不運で かわいそう な私という不幸自慢から、それを乗り越え支えてくれる彼氏もいる自慢話に繋がる部分が、鼻についてしまうのでしょう。 また理解ある彼くん (理彼) という言い回しに、気難しい自分と連れ添って支えてくれることへの感謝はありつつも、相手がこちらに合わせるために相当の苦労や努力をしているであろうことに無自覚、無頓着な部分も見え隠れします (波長があう、おっとりした性格など、偶然や生来の要素を強調し、相手が理解し合わせてくれるための隠れた努力や苦悩を軽視したり無効化するような言い回しがしばしばされていたりします)。
なお逆に、不幸な男性に寄り添い救済してくれる 「理解のある彼女さん」 も 概念 としてありますが (全肯定彼女とか、全肯定よしよし彼女とか)、この場合はシンプルに 「お母さん のような存在」 あるいは 「天使」(ただし性的な ニュアンス が含まれる場合もある) と呼ぶ場合もあり、また 「そうした存在が欲しい」 と願うだけで、実際にそうした相手に巡り合って人生ハッピーエンドという実話風漫画などはあまり見かけません。
実話風ではない創作物にはそうした存在はたくさんいますから、望んでも叶わない夢の存在、あるいはもし本当にそうした彼女ができたら人生満たされてわざわざマンガなどにしないということなのでしょうか。 このあたりは個人差が極めて大きいとはいえ、女性に私生活をベースとした少し重めのテーマによる実話風物語を描く人が多く目立っているという部分はあるのかもしれません。 世に実話風物語を描いた作品やそれを中心とした雑誌などは多数ありますが、おおむね女性向けのものが多い印象もありますし。
なお創作・実話問わず、また本人とパートナーの性別や役割も問わず、何もかもが理想的なパートナーのことは、とくに スパダリ (スーパーダーリン) と呼びます。