あいつが悪い!? みんな、社会が悪い!? 「責任の濃縮と希釈」
「責任の濃縮と希釈」 とは、何らかの事件や事故、トラブル が生じた際に、その原因や責任の所在を巡ってしばしば両極端に振れるメディア報道や、その影響をもろに受ける ネット (とくに 2ちゃんねる といった 掲示板 や ツイッター などの SNS) に特有の問題提起や意見、そうしたことを声高に叫びがちな ネット民 の傾向などを、やや突き放した感じで指す言葉です。
責任の濃縮は、何らかの問題の責任を個人に集約・濃縮することを指します。 例えば事故が起こったら、事故を起こした 現場 の責任者や、実際に事故を招いた個人にその原因と責任の全てを被せるような状況です。 事件や事故の報道では第一報で誰が事故を起こしたのかが流れますから、ネットでは目先の情報に飛びつく 脊髄反射 のような意見が先を争って 書き込まれ ますし、その誰かをどれだけ 強い言葉 で 叩く かの競争になってしまう部分もあります。 社会全体がその個人に憤っている状況なら、誰よりも強い言葉で非難した方が多くの人から支持されますから、その結果、ほとんど 人格攻撃 に近いような罵詈雑言や誹謗中傷が殺到することとなります。
逆に責任の希釈は、事故を起こしたその誰かを起用したのは誰か、事故が起こらないように上司による指導監督や組織としての内部統制がきちんとなされていたのかなど、事故の原因や責任を構造や体質・体制、あるいは 環境 に求めます。 これ自体は正しく、とくに事件や事故の再発を防ぎ世の中を良くするためには必要な考え方でもありましょう。 例えばひとたび事故が起これば多くの人命が失われる航空機事故などでは、原因究明と教訓を得るために、責任逃れのための事実隠蔽につながりかねない個人や組織の責任を問わないといった考え方がされるケースだってあります。
しかしそのうち 「でもそういう問題ってどこの組織にもあるよね」「自分がその立場だったら同じことをしていたかも知れない」「日本ってだいたいそんな感じだよね」「日本人の国民性から生じた事故だ」 などとどんどんと 主語が大きく なり、いわゆる 「一億総懺悔」 みたいな状況になって、誰も責任を取らないみたいな状況を後押しする結果にもなりかねません。
結局は専門家の分析や裁判による決着しかないのだとしても
濃縮は、とりあえず特定の誰かを 「悪」 と認定でき、それを叩くことで留飲を下げたり、自分の正義感を満たす快感も覚えられるでしょう。 またネット民にはそうした人は少なくないので、自らの攻撃的な意見が多くの人から 同意 や賛同を集め、支持され ハズ り、承認欲求 が満たされたり有頂天になることだってできるでしょう。
一方の希釈は、ある種の自責 (自分も社会の一部として責任がある) とか冷笑主義的なものを持ちつつも、事故報道直後の個人叩きから一歩引いた形で論評することで 逆張り のような目立ち方をすることができます。 個人ではなくその陰にある構造やら環境やらを看破する自分を 「目先の報道で一喜一憂するその他大勢と違い、自分は物事の本質を見抜く目を持っているのだ」 との優越感を得たり、個人攻撃に走るその他大勢に対して マウント を取ることだってできるでしょう。
実際の責任や原因は濃縮と希釈の間にあるのでしょうから、これはどっちもどっちであり、どちらの方向にせよ、極端に振れる意見 (それが直感的に分かりやすく賛同しやすいとしても) には、安易に飛びつくべきではないと思います。 人によってはその時点で主流となっている意見にひたすら追従して、手の平ドリル になっている人もいます。 それはあまり褒められた態度ではないでしょう。 第一報に踊らされて個人攻撃をしたり、一億総懺悔で事件や事故の教訓を得ることを妨げたりせず、専門家らの分析を待ったり冷静に推移を見守ることが大切なのでしょう。
多くの人が SNS で情報発信できる時代、その責任は 筆者 を含め多くの人にあるとは思いますが、よくわからないことを断定的に論じることに少しだけ臆病になるだけでも、だいぶ状況は改善するような気がします。 また第一報を報じる大手メディアくらいは、情報を扱う専門家としての矜持を持って、せめて門外漢の ド素人 をコメンテーターに起用して藪にらみ・見当違いの意見で 煽る ような報道に自制的であって欲しいと思います。