学はないけど頭のキレは人並み以上… 「地頭」
「地頭」 とは、地 (素) の頭の性能・能力のこと、先天的な部分が大きい脳みそ単体のパフォーマンスやポテンシャルを指す言葉です。 「地頭が良い」 と云えば、もっぱら 「頭の回転が早く論理的思考ができる」「記憶力が図抜けて飲み込みも早い」「適応力や応用力、柔軟性、発想力が秀でている」 あるいは 「潜在能力が高い」「コミュニケーション能力に優れている」「有能」 といった意味となります。 実力を意味する 「地力」 や賢さを指す 「クレバー」 などとともに、もっぱら第三者の頭の程度を指す他者評価の言葉であり、良いにせよ悪いにせよ、あまり自称することはないでしょう。
単に 「頭が良い」 でいいのに、ことさらに 「地頭」 などと呼ぶのは、しばしば一般で云う 「頭が良い」 に、学校の勉強ができる、教養や常識がある、高学歴、高い 偏差値、各種難関資格の取得、理知的と思われる職業や 趣味 を好むなどが分かりやすい頭の良さの物差しとして使われがちで、それらとまるで縁がなくとも優秀な知力を持つ人を指す適切な俗語があまりなかったからです。 また逆に、学歴や試験の点数だけはよく自己評価も極めて高い (その結果尊大にふるまう) くせに、当たり前のことが当たり前にできないような人、いわゆる学歴バカに対する対概念という部分もあります。
一方、一部の人材業界やコンサルティングの世界では都合の良いビジネス用語としても使われる言葉であり、その場合は定義や 概念 もかなり異なります。 後天的な思考法や発想法などにもその影響が及び、生来の資質や乳幼児から児童段階までの脳の生育・発達 (臨界期・敏感期) を終えた段階になってもさらに 「地頭を鍛える」 といった概念すら生じることもあります。 一般に地頭から想起する 「脳それ自体の器官の優劣」 とはほとんど無関係な使い方であり、強い批判もあります (後述します)。
また 「頭の回転が速い」「機転が利く」 といった評価は、多分に見るものの主観に左右され、かつ相対的なものです。 これらは 「会話術」「交渉術」 あるいは 「発想術」 といったチープなテクニックやノウハウの活用、訓練などによってある程度容易に再現できるものであり、頭の出来とはあまり関係がありません。 人はしばしば自信たっぷりに滑舌よく明瞭に話す相手に知性を感じてしまうものですが、こうしたテクニックにとくに長けているのがいわゆる詐欺師なのであり、そうした人達の話術に騙されがちな人間がいう地頭評価に根拠や意味などないという考え方だってあるでしょう。
学歴や教養、資格は、本人の資質以外の影響を強く受けるもの
世の中には優秀なのに親の無理解や学問に対する軽視や蔑視、敵視、経済的困窮、居住地域や人的ネットワークといった生活 環境 のあれこれ (文化資本) によって、教育や学習の機会に恵まれない人は大勢います。 そうした人は子供のころに義務教育や読書などによって培われる基礎的な学力や教養を満足に持てず、進学機会も活かせず、学歴や資格などを手にすることも難しいでしょう。 その一方で頭がさほど良くなくとも、恵まれた環境にいれば手厚くトレーニングやサポートがされ、本人の能力や努力を超えた学力や教養、学歴を得ることができる人だっているでしょう。
とくに時代を下るにつれ進学における受験テクニックを叩き込む予備校や塾の存在、その反面義務教育では ゆとり が叫ばれたり、学力より経験を重視する受験制度改革、推薦型選抜 (公募制/ 指定校制) の拡大や総合型選抜 (旧 AO入試) の普及 (今や全体の半数以上で、一般入試が少数派に)、さらに私立だけでなく国公立大学にも及ぶ大幅な授業料値上げなどにより、恵まれた環境にいるものとそうでないものとの進学機会格差は拡大し続けています。 近年では大学の学力選抜システムの形骸化が進んだため、企業が新卒採用する際に家庭環境や出身高校を含めた総合的な判断をより一層強くするケースも増えています。 家が貧乏でも親が無理解でも本人が優秀で意欲さえあれば学力試験次第で何とか人生を切り開けるみたいな余地は、どんどんなくなってきています。
「教養や常識や学歴も何もないけれど頭が切れるやつ」 と 「一流大学を出て学歴経歴だけは立派だけれどたいして頭が良くもない使い物にならないやつ」 との比較の中で、家庭環境やら文化資本やらとは無関係に、その人の脳みそ単体の性能の良し悪しを評価するような言い回しが俗語として必要になったということなのでしょう。
「IQ」 と 「非認知能力」
似たような扱われ方をする概念や言葉に IQ(知能指数) があります。 こちらはある年齢における成熟度を計るものなので、環境によっても変化しますし、直接的な頭の良し悪しとはそれほど大きな関係はないとされていますが、脳のポテンシャルといった俗な意味で用いられることも多い言葉です。 しかし具体的数値によって可視化されるため、逆にその数値を知らないと第三者判定の際に使いにくいという部分はあります。 就活時における学歴証明のように文書によって第三者に提示されることはあまりないですし、おおむね自称や自己申告の話になりがちで、信憑性が薄いのもマイナスかも知れません。
関連する概念に近年提唱されてきている 「非認知能力」 もあります。 単なる IQ だけで人の知的能力を判定するのではなく、それを活かせる総合的な能力があるかどうかといった考え方で、「社会性や協調性」「感情のコントロール」「実行力」 などが特徴として挙げられます。 これら3つが備わってなければ、いくら知能が高くても何かを成し遂げたり現実を動かすことはできないし、本人の社会的成功や幸福にも寄与しないという考え方ですね。 これは結果的に地頭にとても近い考え方ですし、肯定する意見もあれば否定する意見もあって評価は様々ですが、このあたりはアジア的な 「徳」 にも近い考え方で耳障りも良く、理屈や妥当性はともかく好意的に見る人も少なくないでしょう。 個人が持つ飛びぬけた能力や突破力などは、個人事業主なら通じても、大きな組織を動かす力にはあまりなりません。
また比較的概念が近い俗な云い方として、「根が○○」 があります。 人の性格や性根をあらわす言葉で、一見悪かったり厳しかったりいい加減だったりするものの、根っこの部分は善人で優しかったり真面目だったりするような、外見と中身にギャップがある場合によく使われます。 おバカキャラを演じてはいるけれど、根は優秀で頭もいいみたいな評価の仕方が多いでしょうか。 もっとも有名なのは 「一見明るいけれど実は根が暗い」 の 根暗 でしょう。
パソコンで例えるとわかりやすい 「地頭」
地頭の良し悪しは、しばしばパソコンに喩えられます。 脳みそはパソコンでいう CPU やメモリ、記憶媒体といったハードウェアに、教養知識やその結果の学歴はそれらを駆動したり生成・記録する OS やアプリ、データといったソフトウェアになぞらえられます。 いくらハード (地頭) が良くても使用者が無知で古い OS や バグ だらけのアプリしかインストールされていなければ実力は発揮できません。 しかし適切なものを得られれば、実力をいかんなく発揮できるでしょう。
またメカニカルな機械類とコンピュータや電子回路の違いを、人間の肉体的な能力と脳のそれとに当てはめるのも、理解しやすいかもしれません。 機械類は動作に対する摩擦抵抗の関係や技術的な熟成などもあり、同じような役割を果たす機械同士の能力比較をした場合に、その差があまりでません。 例えば同じ時代の軽自動車とスーパーカーやレーシングマシンを比較しても、最高速度の差はせいぜい5倍とか6倍程度に留まります。 0〜400メートル加速で2〜3倍程度でしょうか。 しかしコンピュータの場合は、扱い方次第で簡単に10倍とか100倍の差が出てきます。
これは人間の場合も似ていて、例えば短距離走にせよ水泳にせよ肉体競技における一般人とオリンピック選手の記録を比べても、その差はせいぜい2倍から3倍程度に収まってしまいます。 一方で知力競技の場合、例えば暗算や記憶力といった能力の個人差は非常に大きく、簡単に5倍とか10倍、あるいは100倍以上にも達します。 認知負荷にも強く、いくつもの思考や作業を同時にこなすこともできます。
わかりやすいところでは、日本珠算連盟が開催しているそろばんや暗算の競技会のトップ選手の計算力は、一般人平均の何十倍になるか見当もつかないほどの レベル です。 それどころかあまりに計算が速すぎて、トップ選手同士の勝負の決め手が計算力そのものではなく、問題用紙をめくったり回答を書いたり挙手・回答ボタンを押す手の速さで決まってしまうような、身体能力が知力の足かせになってしまうような凄まじいことになっています。 ちなみに暗算世界チャンピオンであるアレクシス・ルメールさんは、200桁数の十三乗根を70.2秒で暗算 (2007年7月) しています。 総合的な知力がものをいう将棋や囲碁なども、素人とトッププロの差は比較すら無理なくらい隔たっているでしょう。
パソコンの場合、個々の部品の単純な 性能値 (スペック) の高い低いだけが必ずしもハードウェア全体の能力評価につながるわけではありせんが (パーツ類の相性や用途による最適な構成があります)、これはこれで人間における適材適所と符合する部分もありますし、知力における個人差があまりに大きすぎる事、そもそも地頭自体があまり根拠のある話でもないので、イメージや分かりやすさ重視といったところでしょうか。
地頭が良くて行動力がある人は、気が付くと世に出ている
具体的な地頭の良さでしばしばわかりやすい例に上がりがちなのは、いわゆる夜の街の頭が切れる経営者やキャスト (ホステスやホスト)、容姿で有名になった後に人脈を活かしてビジネスも成功させる ギャル や元ギャル、ラッパー、さらにはインテリヤクザやインテリ半グレと呼ばれるような DQN や反社 (反社会的勢力)、それらに近いグレーゾーンの人達でしょう。
元々頭脳自体は運よく超高性能ながら、家庭や居住地域といった環境が悪くて勉学や書物に親しむことができず、むしろそれらをことさらに嫌って見せることで周囲の歓心をかって生き延びてきた、しばしば学歴も中卒や高校中退レベルの人たちです (子供の勉強に無関心どころか敵視・憎悪までして、積極的に妨害する親って少なくないです)。 視野の狭さからくる合理的無知や選択的無知と呼ばれるような状態でもあり、もちろん社会人として基礎的な知識や教養もあまり持ち合わせておらず、普通なら社会の爪はじきにされ 底辺 をさまよいかねない状態です。
しかし、小さいながらも自分の意思で物事を動かせる立場に立つと、持ち前の頭の回転力と記憶力で新しい環境にどんどん慣れ、若くして信じられないほどのスピードで頭角を現し、手段が合法か非合法かはともかく、大金を稼ぎだしたりします。 金銭に余裕ができ周囲にお金持ちが集うようになると、「元落ちこぼれ」「底辺出身」 といった 好奇心 をそそるギャップのある肩書はそのままに、自らの拍付けやコンプレックスの解消、社会的地位向上のために高卒認定(旧・大検) から2大私学レベルの大学程度ならあっさり進んで経歴をキレイにしたりします。 暴力や脅し、騙し騙され、借金踏み倒しが当たり前の環境で育ったためか他人の心理を読むことに巧みで、用心深さと場合によっては違法行為も躊躇しない度胸や行動力もあったりします。
こうした人が事業に使えるまとまった額の種銭を手にすると、頭の良さに基づく強い交渉力とそれを支える度胸もあるのですから、ほとんど手が付けられない化け物みたいな感じです。 何らかの利害に基づく争いがあっても、頭の良さを誇示する必要もないので、無駄に敵を作り相手を頑なにさせる論争や論破などもせず、でも気が付くとその人に都合の良いように物事がどんどんすごいスピードで進んでいきます。 それでもだめなら邪魔な相手を平然と叩きのめしたり、揉めたり遺恨を残さない自然な形で交友関係も切り捨てる。 こうした人は外で見ている分には マンガ の 主人公 のような行動力が面白かったり痛快に感じたりもしますが、自分の周囲にはたとえ味方であってもいて欲しくない危険で面倒くさいタイプかもしれません。
筆者も 治安 のあまりよくない時代や地域で育ったこともあり、公立小中学校時代の知人やその周囲にこうした傾向を持つやたらとパワフルな人が何人かいます。 相手が無名な頃からの知り合いなので損得勘定なしでお付き合いできるのですが、利害関係者として知り合ったり一緒にビジネスをするとなると追い込み方もハンパじゃないので大変だろうな…という感じがします。
今の時代、そこそこ成功して世に名が出ると ネット などで 叩かれ ていることを目にすることもありますが、それら批判を全く意に介さずに自分がやりたいことにつき進める図太さは、ちょっと羨ましく感じます。 酒の席で披露される武勇伝の類は聞いていて胃にもたれるものが多いですし、こうした人たちがやりがちな違法行為やらパワハラやらがダメなのは、もちろん大前提すぎるほどの大前提ですけれど。
これら以外で地頭がしばしば話題になるのは、勉強以外の分野でスバぬけた才能や意欲があって勉強そっちのけで邁進した結果、学歴や教養が身につかなかった人 (例えばアーティストとかアスリートとかゲーマーとか)、もっとも 不幸 なのはメンタルを病んで不登校や 引きこもり になったような人たちでしょうか。 いずれも社会常識などに欠けるところがありつつも、一般とは異なる世界で成功することがあるという点では、地頭の良さに加えて生得的な特別の才 (例えば引きこもりだけど ネトゲ では凄腕の プレイヤー として活躍して人望も極めて厚いとか) を感じさせるものとなっています。 ひょんなことから一定のポジションに抜擢されると、驚くような成果を上げたりもします。
「地頭とかって概念自体が頭が悪い奴の発想」 みたいな意見も
一方で、ことさらに 「地頭」 などといった言葉を使う人を 「いかにも低学歴無教養な人間らしい言い草だ」 と批判する意見もあります。 学歴や教養、資格といった頭の良さを計る一般的かつ客観的な物差しを持っている側が、持っていない側の 「でも地の頭はいいから」 といったしばしば主観的な物差しを根拠がないと断定して侮蔑しているわけですね。
あるいは学歴や教養、資格が家庭や環境からの物心両方の支援による不平等な格差から生じたと批判するのなら、地頭こそ親からの遺伝・DNA によるもので、それを持たないものには救いようのない格差そのものであり、生まれ育ちや容姿で人を判断することが批判される現代、地頭などと称して評価すべきではないとの云い方だってできるでしょう。 身も蓋もない話ですが、日本はじめ世界中で双子や養子を対象とした様々な研究が行われた結果、知能は遺伝的・先天的要因が大きく影響するとされ、環境的・後天的要因の余地が少ないことが分かっています。 おおむね知力は7割、学力は6割程度が遺伝の影響によるものとされており、年齢を重ねるごとに遺伝の影響がより拡大することも知られています。
また人材業界やコンサルティング業界などで恣意的に使われがちなため、低学歴無教養な人間にありもしない地頭などという 「夢」 を見せて 「お前にはまだ可能性がある」 とその気にさせて金儲けするための陳腐な バズワード だ、意識だけが高い人 をそそのかす自己啓発や ライフハック と同種の考え方だと批判する意見もあります。 これは美容の世界で容姿にまつわる 「素材は良い」「素質はある」 などと同じで、「あなたが悪いのではなく、環境や方法が悪いだけ」「だから私が正しい環境や方法を教えます」 という、自己啓発やコンプレックス商法の典型的手口と酷似、あるいは全く同じものだからでしょう。
学歴などは高いにせよ低いにせよこだわる人にとってはこだわるものですし、頭の良し悪しなどとともに、しばしば強烈なコンプレックスの種にもなります。 掲示板 などで学歴による マウント の取り合いや大学のランク付け、あるいは 学生証 を使ったカードバトルがしばしば起こるゆえんです。 「高学歴なのに使えないやつ」「これだから低学歴は」 みたいな双方からの侮蔑や分断はいつの時代にもありますし、発達障害のあれこれとか、公平平等多様性を唱えながら自らの恵まれた環境には無自覚な人、それを苦々しく思う恵まれない境遇の人もいます。
社会人になってしばらく経つと、学歴などは転職や同窓会 (人によっては婚活とか) の時くらいしか意識しなくなるものです。 さらに年を取ると優秀だった人の地頭も容姿も身体能力もひたすら衰え続け、家族や自分の健康問題が最大関心事になったりもします (ちなみに健康問題も、本人にはどうしようもないような遺伝や環境、習慣の影響がとても大きいです)。 個人の資質であろう地頭という考え方をどう捉えどう使うかで、その人の学歴観や人物の評価軸、現在その人がいる境遇や社会に対する怒り恨みなどまでがほの見えるのは怖かったり、あるいは逆にあけすけな人の業や人間くささを感じさせる面白い部分なのでしょう。