単なる情報によるリンチと化した 「メディア・スクラム」
「メディア・スクラム」(Media Scrum) とは、新聞や雑誌、テレビやラジオといった多くのマスメディア媒体 (マスコミ) が、たった一つの対象に先を争うようにして大人数、大規模体制で取材を行い、また各メディアの報道上で激しくバッシングすること、批判を繰り返すことです。 なお 「集団的過熱取材」 や 「メディア・フレンジー」(Media Frenzy/ メディア狂乱) とも呼びます (狭義には過剰な取材を主に指し、これらの用語で呼ぶのが相応しい)。
日本では 1984年からの、いわゆる 「疑惑の銃弾」(ロス疑惑事件) 報道でのメディア加熱からこうした言葉が盛んに使われるようになり、それはしばしば批判的な意味を持っていました。 「報道の自由」「知る権利の保障」 を旗印に、近隣住民の迷惑を考えない連日連夜の大人数での取材。 そのニュースだけに埋め尽くされるテレビや新聞、雑誌の報道。 針小棒大でイメージ優先、扇情的な価値のない情報…。
「メディアスクラム」 は、それらをひとまとめにして冷ややかにみるような言葉となっています。
本来の 「メディアスクラム」 は、権力に屈せず正しい報道をすること
スポーツ競技 「ラグビー」 における 「スクラム」 選手 (マスメディア) が力を合わせぶつかり合い ボール (正しい情報) を投げ入れ公正な試合を 再開 (公正な社会を実現) させる |
言葉としての本来の 「スクラム」(Scrum) は、スポーツ競技 「ラグビー」 の試合において、反則などで試合が中断した後に、各チームのフォワードが肩を組みながら体を寄せ合ってひと固まりとなり、反則を取られるなどした側のチームからのボールの投げ入れを促し、速やかで公正な試合の再開を行うためのルールのことです。
転じて、国家や大企業などの巨大な権力が不正や犯罪を行い、その情報隠蔽を力ずくで図ろうとした時に、1つ1つは弱い存在である各メディアやジャーナリストらが互いに力を合わせ、一致協力して権力や圧力に抗し、正しい情報の発信と、社会正義実現のための取材、報道を行うことを、メディアがスクラムを組む、すなわち 「メディアスクラム」 と呼ぶようになりました。
こうした言葉が生まれた背景には、過去に戦争などにまつわる国による情報統制で多くの報道機関が虚偽の情報の流布に積極的・消極的問わず協力せざるを得ない状況となったことへの強い自己批判、反省や、大企業がスポンサー料として支払う巨額の資金による大きな影響力、スラップ (恫喝的訴訟) による圧力を無視できなくなったことへの自戒などがあります。
「メディアスクラム」 は、マスコミが団結して取材や報道を行うという現象を表す言葉であると同時に、マスコミやジャーナリストが 「国民の知る権利」 を守るために自らを律し、不当な圧力や近視眼的な利益誘導を跳ね除ける、ある種の 「公正な報道の宣言」 とも呼べるものともなっています。
強い者に抗するのではなく、興味本位の弱い者いじめを指す言葉に
ところが実際は、日本では多くの場合で 「常軌を逸した取材合戦」「単なる情報リンチ」 を 「メディア・スクラム」 と呼ぶようになっています。 これはこの言葉が生まれたアメリカなどでも状況は似たものなのですが、こうした言葉を過剰な取材や報道への批判の意味として使うケースが度々あり、悪い意味での定着が進んでしまったからなのでしょう。
またマスコミやジャーナリズムそれ自体が 「第四の権力」 と呼ばれるほど強大な影響力と権力を持つようになり、一方で他の権力との癒着や 馴れ合い、さらにビジネスとして視聴率や新聞の販売数など数字だけを追う報道姿勢に流れがちの状況などもあります。 こうした状況が続くと、「マスコミとはいえ、所詮はビジネス」「正しい報道など、ほとんどないのではないか」 という疑惑を多くの一般市民がマスメディアに抱くようになり、「狂乱だろうがスクラムだろうが、メディアが結束するだけで悪いことなのだ」 といった言葉への違和感を覚えさせないという現実もあるのでしょう。
取材対象を社会的に抹殺するのが目的としか思えない過剰で悪意に満ちた報道、よってたかってプライバシーを暴き立てるワイドショーやパパラッチの下品極まりないゴシップ、スキャンダル報道。 これらを見て、「国民が等しく知るべき報道内容か」 とは、多くの国民、市民が疑問に思うところでしょう。
卒業アルバムや文集、近所住民の コメント、恩師や古い友人のコメント…
メディアスクラムの例としてもっとも良く話にでるのは、やはりテレビのワイドショー報道でしょう。 ひとたび犯罪者 (容疑者) の名前が出ると、その容疑者が犯した罪とは何の関係もない子供の頃の卒業アルバムや文集の作文や イラスト がおどろおどろしい音楽と共に連日流されますし、近隣住民や恩師、昔の友人や勤め先の友人、知人らへの執拗かつ大人数でのコメント取材も殺到します。 テレビや新聞は連日そのニュースばかり膨大に流し続け、ほとんど報道による集団リンチの様相を呈します。
扇情的で視聴者や 読者 の怒りを 煽り 立てる報道内容は、それによって怒りを増幅した国民や市民の反応に呼応してさらにエスカレートして、取材合戦も加熱。 朝から晩までそのニュースばかりがテレビ画面や紙面を埋め尽くすような状況にもなり、行きすぎた過熱報道はプライバシーの侵害や、無秩序な 飛ばし記事 の蔓延、場合によっては捏造すら生み出されます。
メディア側から 「こいつは悪だ」 と決め付けられた対象は全国民の敵かのような扱いをされ、ただひたすら 「嵐」 が通りすぎるのを待つことしかできません。 またその矛先は加害者や容疑者だけにとどまらず、被害者や遺族、関係者らへも向けられ、著しく配慮に欠けた興味本位の野次馬報道となるケースも多いものです。 あげく、取材対象が何の落ち度もない冤罪だった場合すらあります。
本来テレビや新聞などの許認可を得て情報配信しているマスコミなどは、AとB、両方の立場で情報を公平に伝えなくてはなりません (質と量ともにです)。 テレビは放送法でそう定められていますし、新聞は独禁法の特殊指定維持の理由に、社会的な意義や公器の性格を持つものだからとして自ら説明しています。
視聴率が稼げるというのは、国民が見たがっている、知りたがっていることと表裏一体ではありますが、それだけを追い求めるのなら、他の産業と同じように自由な競争の元でビジネスとしてメディアを経営すれば良いでしょう。 一方では 「公器だ」「使命だ」 と既得権を守りながら、一方で 「知る権利のバロメーターが視聴率だ」 で必要以上にセンセーショナルで価値の低い報道を繰り返すのでは、メディア自体が信頼を失い、衰退することにも繋がってしまいます。
メディア報道を受け取る視聴者、国民や市民の側は、洪水のような報道に身を委ね溺れてしまうのではなく、より良い情報、適切な情報を選び受け取る技術、メディアリテラシー を身につけたいものです。
ネットの祭りを批判する資格があるのか
紙面と連動した毎日新聞の企画 「ネット君臨」 ネットやその利用者を一方的に批判し、 不気味で無責任な匿名の暴力と表現した 第一回は 「難病児募金あざける「祭り」 |
メディアスクラムも ネット の 祭り もどちらも下品で悪だ、との意見は多く聞かれます。 しかし、こうしたマスメディアがしばしばネットの祭りを 「情報による集団リンチだ」 と批判しているのも滑稽です。
どちらが先鞭を付けたのか、今現在自分たちがやっている報道とどう違うのか、きちんと説明できるのでしょうか。 ネット上の祭りの対象にしばしばマスコミ自身が選ばれていますが、これもある意味では当然の流れでしょう。
ネットの祭りに参加している多くの人達は、自分たちが 「社会正義を実現する」「国民の知る権利を保障する」 などと上から目線の欺瞞を振りかざしませんし (全てとは言いませんが)、それによって大金を稼いだりもしていなければ、法律、税制上の優遇など既得権の享受も得ていません。
また被害者の過去をほじくり返しプライバシーを暴いたり、遺族を追い掛け回して傷口に塩をすり込むような無神経な質問を浴びせかけたりもしません。
ネットの祭りの一部には、目を覆うような醜悪なものがあるのは否定しませんが、他者を批判する前にマスコミの側が先にやるべきことがあると思うのは、筆者 ばかりではないでしょう。