迷える人々の間に降臨…眩しくてありがたい 「ご本尊」
「ご本尊」(ごほんぞん) あるいは 「本尊」 とは、仏教系の宗教において最重要だと認識され、信仰・崇拝の対象となる御仏の姿を写した仏像や仏画、掛け軸、書、護符、あるいは舎利といった物品 (有体物) のことを指します。
宗旨宗派によりご本尊の扱いや種類は異なりますが、一般的には宗教施設の最深部 (奥の院) に最も大切なものとして安置されます。 寺院と云えば壮麗な歴史的建造物が目につきますが、寺院や建物はあくまでご本尊を安置し護りお祀りし賛美するために作られた 「入れ物」「箱」 ということになります。 また個人宅の仏壇の場合でも、中央部分に安置するものがご本尊と呼ばれます (ご先祖様の位牌などはその傍らに安置します)。
これが転じて、同人 や おたく・腐女子 の世界では、ファン が自分の 推す アイドル、マンガ や アニメ などの 作者 や声優を 「ご本尊」 と呼ぶことがあります。 元々は男性アイドルに対する女性ファンらが、自分が 担当 する対象に対して使い始めたもので、腐女子用語の一つとされることもあります。
なお 「ファンとしてあがめる対象としての本人である」 という意味の他に、本物である、公式 である、核心である、他に代替できない唯一無二の貴重なものであるとの意味になる場合もあります。 場合によっては 神 とかご神体、教祖と呼ぶこともあります。 ただし言葉が使われる時代や場所、集う人の種類によって、意味に含みがあったり微妙に ニュアンス が変わる場合もあり、とりわけ尊師の場合は、ほとんど侮蔑・罵倒の意味になります。 ちょっとひねったものでは 「ジャンル の最大手」 みたいな呼び方もあります。 最大手も何もご本人そのものなのですが、面白みのあるフレーズとして使う人もいます。
何かと宗教に喩えられるファン活動
ファンとファンがあがめる対象との関係は、宗教にとてもよく似ています。 娯楽や 趣味 とは云え、対象に癒しや希望、救いを求め、声援や お布施グッズ の購入によって功徳を積んでお近づきになるという点では、外見上あまり大きな違いはありません。 その結果、言葉を宗教のそれに喩えることも多く、熱心なファンは 信者 (儲) と呼ばれますし、グッズを買ったり 課金 することを お布施、友人知人をせっせと誘うのは 布教、ゆかりの地は 聖地、キャラ の誕生日や記念日には 生誕祭 (聖誕祭) が営まれ、祭壇 も設けられます。
一部では、真摯な信仰とたかが娯楽や趣味のそれとを同列に扱い安易に喩えるなとの話もありますが (聖地じゃなく舞台とかロケ地と呼ぼうみたいな)、そもそも日本には仏教に由来する一般用語が数えきれないほどありますから (挨拶とかありがとうとか愚痴とか超とか…)、それもいささかナンセンスな話でしょう。 なんだかんだいいつつ、長い歴史の中で日本の隅々にまで仏教的なものが浸透している結果でもあるのでしょう。
「偶像崇拝」 と 「ご本尊」
仏教や神道をはじめ、特定の宗教に帰依していない多くの日本人のイメージでは、宗教や宗教施設には信仰の対象でシンボルでもあるご本尊やご神体がつきもののような印象があります。 しかしこれを 「偶像崇拝」 だとして否定する宗教もあります。
偶像崇拝禁止でよく知られるのはユダヤ教やキリスト教、イスラム教ですが、うちキリスト教では、イエス像やマリア像、十字架、聖遺物など、他の宗教で云うところのご本尊・ご神体・偶像にも似た存在に感じられるものがあり、ちょっと分かりにくい部分があります。 これらを実質的な偶像だとして否定している教派もありますし、否定してなくとも、「崇拝ではなく崇敬だ」 として偶像崇拝には当たらないとの立場を取る場合もあります。 いずれにせよ教会やモスクといった建築物はあくまで礼拝所であり、他の宗教のそれとは性格がかなり異なります。
一方、仏教やヒンドゥー教などでは神仏を写した像が盛んに作られていますし、あまり神像のイメージがない神道にも、山や岩、樹木といった自然物のほか、鏡や剣、勾玉、御幣などなど、拝むべき 「もの」 が存在します。 このあたりは一神教か多神教かとか、他の宗教や神様との融合やら歴史的な経緯のあれこれで、様々な考え方や慣習の違いがあります。 いずれにせよ何かを選んだり像を作ることで、そこに神や仏の魂が宿る、あるいは逆に宿ったから奉るという思想が根本にあり、「作り物の単なる像や物を拝んでいるわけではない」 というのは押さえたいポイントです。
例えば日本人にもなじみ深い仏教でいえば、これも宗派によって考え方がかなり違いますが、ごく大雑把かつ乱暴すぎるくらい乱暴に言えば、仏様は宇宙の真理であり根本で人々を救う存在だけれども、そのまま宇宙の真理で根本ですといってもあまりに広大無辺で目にも見えない存在であるため人間は理解できないから、人間の形をした仏様や人として現れ (権現) 人々を導くといったものになります。 なのでその教えのもとに仏像を作るのは理解を助け、より多くの人々を導き救うために肯定するという考えなのですね。
逆に偶像崇拝を禁止する宗教は、これまた大雑把かつ乱暴に云えば 「偶像じゃなく神様の言葉を直に聞け」 なわけで、これはもうそれぞれの宗教によって神仏への崇拝方法の考え方が違うとしか言いようがないです。 ただしほとんど全ての宗教は最終的には神様なり仏様なりの声を直に聞くとしても、それができるようになるまでは語り部たる宗教者が誰にでもわかるような 「例え話」 で教えを説いて導くという部分はおおむね共通しています。 神様の代理人の例え話の説話による理解がよくて、偶像はダメと云うのもよくわかりませんが、このあたりは歴史的なあれこれもあって善悪をどうこうできるものでもありませんけれど (そもそも宗教に条理や整合性を求めても無益です)。
ともあれ、それが宗教にせよ趣味としての推しにせよ、何かを心の支えや癒しとして大切にするのは、人の気持ちの持ちようとして普遍的なものでしょう。 そうしたものを持ち得たという縁に感謝して、推しを愛でるのが人生や生活を豊かにする知恵なのでしょう。 そして自分には理解できないものを推している人がいても、それを笑うようなことだけはしないように心がけたいものです。