「萌え」 が一般化する中で改めてキャラに萌える 「キャラ萌え」
「キャラ萌え」 とは、そのまんまですが、キャラクター に 萌え ることです。
ただしフラットな意味で使うケースは稀で、自称にせよ他称にせよ、そのキャラが登場する マンガ や アニメ、ゲーム といった作品全体の物語・ストーリーや 世界観 などを無視あるいは軽視し、ただひたすらキャラだけに萌え萌え云っている レベル の低い おたく、といった揶揄や侮蔑、あるいは自称の場合は 自虐 や謙遜の ニュアンス もおおむね入っています。 他人のそれを指して使うことが多い 「萌え豚」 などもほとんど同じです。
一つの作品を楽しむ時に、物語や演出、テーマ やメッセージに注目するのか、単にキャラ (キャラの見た目 (ビジュアル) や性格、場合によっては声を当てている声優さん) が好きでそこばかり見るのかなどは個人の自由です。 どちらが上か下かなども無意味な問いでしょう。 物語やテーマ重視の人だってキャラに 感情移入 したり、登場人物の視点で作品を見ているわけですから、両者は不可分な関係でもあるはずです。
しかし作品の魅力のうちキャラのそれだけを見たり、単に自分が好きな 萌え要素 に基づくキャラの好みだけを基準に作品を評価されるのがイラつくのはわかります。 そもそも作品においてキャラは物語を進めるための要素・パーツの一つであって、作品の本質や核となる部分を見ずにわかりやすい枝葉のキャラだけを見て喜ぶのは程度が低いものとの認識を持つ人は多いでしょう。 他者批判の文脈だけでなく、自虐としての自称も多いのが、キャラ萌えという言葉なのでしょう。
とはいえ人は、物語ではなくキャラに感情移入するもの
そもそも萌えと云う言葉自体が、作品中の特定のキャラに着目し好きになるという意味の言葉です。 しかし使い勝手の良さからキャラ以外にも当てはめられ、例えば シチュエーション (設定 や状況) に対して シチュ萌え と呼んだり、さらには日常生活のあれこれに対しても、単なる 「好きだ」 の言い換えとして萌えが浸透します。 キャラ萌えという言葉はある意味、萌え 概念 が拡張する中で再び本来のキャラが好きだに戻る云い方だとも云えます。
萌えという言葉はその後、推し という言葉に言い換えられるようになりますが、こちらも特定タレントやキャラに着目した好きをあらわす云い方ですし、結局のところ人は物語ではなくキャラに好感を覚えたり感情移入するものなのかなという感じもします。
ことさらにキャラ萌え批判する人は、単に 「自分はこの作品のテーマやメッセージに共感や理解ができる優れたおたくなのだ、表面的なところだけを見るキャラ萌えのニワカとは違う」 という強い選民意識、他者への マウント も感じられ、それはそれでどうよという感じがします。 同じような対比によるマウントでは、売れ筋・メジャーな作品と、マニアック・マイナー な作品でのあれこれでもあったりしますし。
好きな理由を 「キャラ」 にすると話も簡単に済む利便性もあったり
なおキャラ萌えを頻繁に口にする人が、いざ作品の深い部分を語り合う場に参加すると、テーマやメッセージ、物語についても深く作品を理解し、いくらでも作品論を戦わせることができるという状況は結構あります。 ただ話し出すと長くなるし体力も使うので、軽い話の時は 「○○ちゃんが好きです、萌え〜」 でお茶を濁しているだけというケースです。 もちろん、キャラのことしか頭になくて、作品全体には浅い関わり方しかしていない、無口・寡黙 で固まってしまうようなファンも大勢いますけれど。
またキャラ萌えを標榜する人は自分の好きなキャラに対する出費をいとわないため、コンテンツ のビジネスという点では 「上客」「太客」 だという部分もあります。 物語やテーマ重視の ファン は 円盤 や設定集などは買っても、訳の分からない グッズ などはあまり買いません。 しかしキャラ萌えのファンは お布施・推し活 と称して キャラ絵 がついただけのしょうもないグッズをガンガン買ってくれます。 さらに作品人気や ジャンル、界隈 を盛り上げる 同人・二次創作 の世界では、キャラやその組み合わせである カップリング が重要視されるため主戦力です。
キャラ萌え批判派からすると、「だからキャラ萌え作品ばかり作られることになるのだ」 となりますが、「作品のどの部分が好きか」「語るか」 だけで相手の人格を決めつけるようなふるまいは、しない方がみんな幸せになれる気がします。 これは逆のケースで、「自分好みのキャラがいないからこの作品は クソ」 と 露悪的 にふるまう一部のキャラ萌え・萌え豚も同様でしょう。