当たるも八卦当たらぬも八卦…「深読み」
「深読み」(ふかよみ) とは、訓練 された おたく の持病のひとつです。
具体的には、アニメ や マンガ、ゲーム、小説や ラノベ や音楽などの作品の 設定 やストーリー、あるいは些細なディティール、行間、メタファー (隠喩)、アイロニー (皮肉)、アトリビュート (特定の人物・職業などに関連付けられ象徴とされる持ち物)、それらが複合した様式や約束事のあるなしなどから、隠された秘密や真の意味、カモフラージュされた裏の設定や 作者 の意図、高尚なメッセージなどを読み取って 解釈 し、それを分析・提示することになります。 「裏読み」「読み解き」「裏設定解読」「裏テーマ解読」 などとも呼びます。
さらには本来は存在しない設定を自ら構築し (深読みしすぎる状態)、薄っぺらい駄作を複雑なメッセージ性に富む芸術作品や傑作に仕立て上げたり、自らの勘違いの深読みに酔いしれ、自分の洞察力、教養や知識を誇らしいものとして捉える、さらには自分が支持する哲学や人文学的思想や政治的立場と無理やり絡めて作品をそのダシにするなどの 「語りたがり」 を 痛い として表す場合もあります。
表面的にすぐ分かる意味と、その裏に隠された本当の意味
およそ創作物と呼ばれるものは、作者が何らかの意図や伝えるべきメッセージをその作品中に含んでいます。 たった一枚の 絵、一行の言葉であってもそうですし、素直に鑑賞した時にストレートに受け取れる表面上のストーリー・メッセージとは正反対の意図やメッセージ、風刺を含む作品もあります。
これらを作品から読み取るのは、作者側がメタファーなどでヒントを与えてくれている場合を除けば、単に創作物を受け取るだけの鑑賞者が作者と同じ立ち位置に自分を持っていって能動的に作品を再構築して楽しみ、ある意味で 「再創作」 とも呼べる知的で困難な作業をしばしば要求します。 しかしそうした深読み、裏読みが行えるエッセンスは、1つの作品を何倍にも豊かで複雑な味わいを持つ大きな作品にしてくれます。
こうしたある種の 「謎掛け」「謎解き」 のようなものは、素朴な創作物が登場してすぐに現れたとみてよいでしょう。 いわゆる 「象徴」「寓意」「判じ物」 というやつですね。 単なる動物を描いた壁画であっても、そこには描き手による 「狩で獲物がとれますように」「狩で豊かな生活ができますように」 との願いや意味、メッセージが入っていますし、あるいはその動物に神秘性を見出し、「神の化身」「神様のシンボル」 のような意味を持たせ、もっと大きな宗教的意味を象徴、寓意として含めたり、表立って批判できない権力者にあてこすりを行う場合もあります。
当時の人たち、同じ文化圏の人にとっては自明のそれも、時代が違ったり別の文化を持つ人たちから見ると分かりづらいものだったりして、作者なりの本当のメッセージを受け取るためには深い知識と並々ならぬ努力が必要な場合が少なくありません。
寓意を込めた作品
時代が進みそうした表現が洗練されると、特定の モチーフ やシンボルが特定の意味を持つようになり、さらにそれを逆の意味で使うようなケースもでてきました。 例えばある権力者が絶大な力を持っているとして、その権力者に否定的な考えや立場を持つ描き手が、そのままストレートにそれを表現すると弾圧されたり命を奪われたりするので、表面上はその権力者を称えるような体裁を取りながら、自分たちと同じ考えの人たちのみに本当の意味やメッセージが伝わるようなシグナルを埋め込むような形ですね。
よくあるケースでは、作品内容と地理的・季節的に合わない 「花」 を意図的に絵やストーリーに配置して、その花言葉の意味が実は…といったパターンが代表的です。 また古典文学などから差しさわりのない部分を引用しているが、その古典が記された時代背景や著者の考えなどが実は…などといったパターンもあります。 こうした仮託的、あるいは間テキスト性的な表現は、特定の花と花、あるいは鉱物や動物、自然現象、宗教上・歴史上の有名人や故事などと複雑に 絡み 合わせて、寓意だけで長大な物語を裏に持つような作品も生み出しています。
こうした表現方法は後に、宗教画や神話、宗教物語において工夫され発展しますが (ほんの数百年前まで、創作の多くが宗教や信仰と不可分のものになっていました)、作品を実際に作る人、職人や工房にそれを発注する富裕な権力者やパトロンの 「本当の意図」「隠された意図」 があるのは昔も今も変わりません。 中には政治や宗教、思想などとは無関係に、作者の個人的な願い、例えば好きな娘と結ばれますように…なんて願いが込められたような作品もあって、特定の作者の熱心な ファン にとって、こうした 「深読み」「謎解き」 の類は、作品本来の意味や価値とはほとんど無関係であっても、興味が尽きないものがあります。
さらに時代が進むと、作者が鑑賞者に対し秘められた意図を謎解きさせるような、ある種の知的ゲーム、挑戦状のような作品も登場します。 ルネッサンス期の寓意画などがその代表ですが、単に目で見て美しい、綺麗だといった視覚的な印象だけでなく、意味を感じ取るのに広く深い知識、教養を求められるような、ある種のパズル、貴族や富裕な知識人の知的な娯楽として発展します。 こうした傾向は絵画や音楽といった伝統的な芸術作品でルネッサンス以降非常に盛んになりますが、文学の世界でも多くの作品が見られるようになります。
やりすぎると、本筋と関係ない細部にばかり目がいって…
こうした 「謎解き」 は、一方で 「どうでも良い細部にばかり目をやって、本筋、本質がかえって見えなくなる」 といった危険性があります。 例えば登場人物の名前が、ある法則にそって付けられていると分かったとして、それがその作品の本筋と無関係のものだったら、「だから何なのだ」 ということは結構あります。 作品そのものを楽しみ、その上でウンチク、トリビア、豆知識として周辺の付帯情報やムダ知識をファンとして味わうのは楽しいものですが、謎解きに熱中するあまり、枝葉ばかり見て幹を見なくなったら本末転倒でしょう。
まして、薄っぺらい駄作を過大評価、過剰評価しすぎて、単なる偶然で 「そう見えるだけ」 の本来は存在しない設定を 「発見したつもり」 になって自ら構築し (いわゆる深読みしすぎ、あるいは 妄想、脚そ考 (脚本の人そこまで考えてないと思う)、複雑なメッセージ性に富む芸術作品や傑作に仕立て上げたりするのは、無駄な 「再創作」 と云えます。 自らの勘違いの深読みに酔いしれ、自分の洞察力、教養や知識を誇らしいものとして捉え、「お前はそんなこともわからないのか」「お前の見方は間違っている」 などと主張するケースなどは、ハタから見てもかなり痛い状態となるでしょう。 場合によっては自分の主義主張にとって都合の良い解釈をして他者批判の道具にするようなこともあります。
作品を表面だけなぞるのではなく、深く噛みしめて 「一粒で二度美味しい」 ものとするか、噛みすぎて雑味を出しすぎたり、あるいは本来の味、作者の作った味とは全く違うおかしな味にして作品を台無しにしてしまうのか、「鑑賞者にもある種の才能が求められる」 ケースは結構多いでしょう。 確かに複雑で謎の多い作品は 「語りたくなる」 ものですし、単なる中傷などと違い、精密で客観的な批評にはきちんとした価値があります (場合によっては批評対象と同じくらい重要で意味のある批評も多いものです)。
自分がある作品を前にしたとき、どうその作品と付き合いたいのか、どうその作者と向き合いたいのか、それを意識するのかしないのかはともかく、漠然とでも目的意識を持って楽しむと、同じ時間が何倍も濃密なものになるかも知れません。
なお、「他人の解釈」「他人の謎解き」 を鵜呑みにして、作者本人の声や自分の素直な感情よりむしろそれを優先して作品の評価をしたり、それを自分の考えかのように装って他人に語ったりするのが、あらゆる楽しみ方の中でもっとも最悪に近いタイプの受け取り方、単なる受け売りの愚行なのは、いまさら説明するまでもありません。 また自分の好きな作品の評価が低くて批判されているのに反論するため、後付け解釈で無理やりな擁護をするのも、心情はわかりますがあまり褒められた振舞いでもないでしょう。
作者が作品に込めたメッセージ
同人 やおたく 界隈 の話をすると、小説やアニメ、マンガ、映画や特撮やゲームなどに込められたクリエーターのメッセージをどう受け取るかとなるでしょう。 商業的 な作品、ビジネスとして作られる作品の場合は、そうしたメッセージをそれと分からないように作者が込める作品がかなりあるものです。
これは商売として作品を作る以上、「売れるもの」「より分かりやすく多くの人に受け入れられるもの」 を作る必要があり、自分のメッセージがそれらと異なる場合、あまりに強く出しすぎるとスポンサーがお金を出してくれなかったり、商業的にリスクが大きくなるケースが多いから隠す必要が生じるのでしょう。 もちろん時代時代でタブーとされているような考え方や表現、メッセージもあり、それを隠す意味もあります。 隠してまで表現したくなる作者の心情には、くみ取るべき意味もあるでしょう。
一方で作者が個人的・実験的に作った作品や、同人的なものに関しては、「描きたいものを描く」 という立場が鮮明だったりして、ストレートにメッセージを伝える作品が多いような感じがします。 寓意画や難解とされる映像作品の 精神世界シーン のように、視聴者や 読者 に 「俺の意図が分かるか」 と挑戦するような作品は少なくありませんが、目にするのは自分のファンや愛読者なので、わざわざ意図を隠したりカモフラージュする必要がないのかも知れません。
また 「おたく」(とりわけ初期のおたく) にとって、「SF」(サイエンスフィクション) は切っても切れない関係にありますが、多くの古典的 「SF」 作品が、何らかの寓意やアレゴリー、黙示、教訓、風刺を含むものですし、ファンタジー やその元になっている神話や民話、伝説などもそうした構造を持っていますから、「同じ作品、同じ ジャンル の作品を大量に見る」 傾向がある 「おたく」 とは、親和性が高いのかも知れません。
「新世紀エヴァンゲリオン」 で 「深読み」「謎解き」 がブームに
前述した通りこうした謎解きは創作物にはつきものなのですが、これが 「おたく」 の世界で非常に大きなある種のブームになったことがあります。 1990年代の 「謎解き本ブーム」 と、「新世紀エヴァンゲリオン」 のブレイクです。 謎解き本については、裏設定を想像したり、作者の生い立ちや別の作品、あるいは作品以外のインタビュー記事などの発言からあれこれ推理を働かせて 「このシーンにはこういう隠された意図があった」 なんて発表したりします。
そうした知識や情報をまとめた 「エヴァ本」 は同人の世界における 趣味 の批評本などと異なり、商業出版の世界でも結構な成功を収めますが、ここらは 「ゲーム攻略本」 などに慣れ親しんだ世代が、「ゲームソフトの裏技」 を本から得る要領で、「物語の裏設定」 を求めていたのかな…という感じもします。
「エヴァ本」 の中には、どれとは云いませんが自らの教養をひけらかすだけの自己満足気味、独りよがりの勘違いだらけ、間違いだらけのかなり酷い本もあったのですが、優れた批評や考察本では、自分では気がつかなかった思わぬ視点での見方なども発見でき、作品世界を広げ読解を助ける 「あんちょこ本」 みたいな存在になってましたね。