右も左も煽りに煽って対立激化 「対立煽り」
「対立煽り」 とは、異なる立場にある者同士が激しく対立し罵り合うよう、当事者、もしくは部外者がそれぞれの立場にある者を 煽り まくり、火に油を注ぐような状況を指す ネットスラング (ネットミーム) です。 主に 2ちゃんねる といった 掲示板 やそのまとめブログ (まとめサイト の一種)、Twitter などの SNS といったコミュニティ系サービスで広く使われます。
本来は、「すでに存在する対立」 に風を送り強く燃え上がらせるのが煽りとなりますが、必要以上に 主語を大きく し、火のないところに無理やり放火するような、曲解・嘘・捏造・自作自演 何でもありで対立関係にない者同士に対立の構図を作り上げて焚きつけ、ヘイト を煽りまくる場合もあります。 憎しみを生み出す存在として 「憎悪クリエイター」、無用な人の分断を招く 「分断煽り」 と呼ぶこともあります。 ただし対立や憎悪と分断とは似て非なるものなので、ニュアンス の違いを意識した使われ方がされることもあります (後述します)。
これら 「対立煽り」 の テーマ は様々です。 企業の商品や アニメ や ゲーム といった コンテンツ の好き嫌いから、東京 vs 大阪 や 都市部 vs 地方 といった地域間対立を煽るもの、男 vs 女 とか 老人 vs 若者 といった性別や世代間対立を煽るもの、さらには 右 vs 左 や おたく vs フェミ、嫁 vs 姑 など政治や思想・社会的な立ち位置を争ったり、特定の国や民族同士の対立を煽るものまで、扱うテーマ・その レベル や内容まで、ありとあらゆるものが存在します。
争え…もっと争え…「対立煽り」 の様々なパターン
煽り方とその目的は、大きく分けて2種類あります。 1つは、自身が一方の当事者として対立を煽るものです。 例えばAとB、2つの立場があるとして、「私はAの立場だが、Bは最悪だしB支持の連中は許せない」 と批判し、相手からの反撃を誘うパターンです。 また逆に 「Aの立場だが私以外のA支持者は腰抜けばかりでBを放置してる」 などと自陣営に対して煽る場合もあります。 この場合、煽っている本人自体は当事者であり、Aの立場の人間でもあるので、その主な理由は本人なりの正義感だったり信念だったりもするのでしょう。
2つ目は、その時々でAとB、それぞれの立場を使い分け、その時点その時点で双方の対立陣営を批判したり 叩い たり、自陣営を腰抜け呼ばわりするなどしてそそのかしたりするタイプです。 この場合、煽っている本人が1のパターンと同様どちらかの陣営の当事者であり、本人なりの正義感や信念からこうした行為を行う場合もあるのですが、全くの部外者が単なる暇つぶしや 荒らし行為 として、あるいはビジネス的な動機 (後述します) から、双方の憎しみを煽っている場合も少なくなく、状況を見づらくしているケースもあります (とくに荒らし行為として対立煽りする人は昔から非常に多く、迷惑な 厨房 の意味で 「対立厨」 と呼ぶ場合もあります)。
なおこれら2種類とは異なり、3つ目として 「A、Bどちらの立場にも属さない中立を明言して双方を煽る」 という形もあります。 しかし敵を 設定 し争っている当事者にとっては、こうした第三者・部外者の立場からの煽りはさほど腹も立たず効果もあまりないので、対立煽りの意味で見られることは少ないようです。 「関係ない奴は黙ってろ」 で終わりです。 ただし マウンティング のやり方としては手軽であるため、対立煽りではないけれど同じような 書き込み をする人は結構いたりします。 例えば 「AもBもどっちも クソ」「A・Bクソ同士で仲良くケンカして 対消滅 してください」 みたいな感じです。
もっともこうした3つ目のパターンの中に、どちらかの立場に立つ当事者が、部外者のふりをして書き込む場合もあるのでさらに複雑です。 いわゆる 「自称中立」 という立場です。 このケースでは、「自分はAの立場だが、ことさらに相手方の非をあげつらう アンチ は、それがAであれBであれどちらも嫌だ」「それぞれの立場を尊重しろよ」「みんな仲良くしよう」 との理由が根本にはあるのでしょう。 しかしこの意見も本人がどちらかの立場であるのを明言したり、しなくともそれが分かるような意見を書き込んだ途端、結果的にかなり強めの対立煽りになってしまいますし、憎しみを煽る点では対立煽りと大差ないともいえ、何とも困った感じではあります。
また部外者が当事者のふりをして書き込みしているうちに許せない反論やプライドをくすぐる賛同を受け、それがきっかけで一方の当事者に本当になってしまい相手陣営に対して怨嗟の声を上げ始める場合だってあるでしょう。 まさにミイラ取りがミイラになる状況ですが、対立煽りを行う人はこれをも狙って誘っているわけで、鴨が葱を背負って来る・飛んで火にいる夏の虫な状況だとも云えます。
なぜ対立を煽るのか
なぜ対立を煽るのかについては、様々な理由があります。 ネット、なかんずくコミュニティ系の一部のサービスで利用者らが対立を煽るのは、ひとつには 「それで場が盛り上がる」「他人のケンカは見ていて面白い」 からでしょう。
一般的にネットでは、批判や罵倒といった ネガティブ な レス や コメント (書き込み) は容易にクローズアップされたり盛り上がる傾向にありますし、他人同士が醜く言い争う様子は、その是非はともかく、一部の部外者にとっては 「面白い娯楽」 でもあります。 いくらレスが殺到し盛り上がっても掲示板本来の目的が果たせなくなったら意味がないのですが、一部の荒らしやそれに近い人にとっては構わないことなのでしょう。 仮にその板や スレ が潰れても、また別の場所にいけばいいだけですし。
また盛り上がる、人によっては面白いと感じられるということは、それらの書き込みを ブログ などにまとめているサイト 運営者 にとっても、「簡単にアクセスを稼げる」「それによって アフィリエイト などを使った金儲けができる」 ことでもあります。 実質的に半業者や業者が運営しているケースが少なくない2ちゃんねるまとめブログ (アフィブログ) などでは、「サイト運営上、手っ取り早く人とお金を集められる便利な ネタ」 でもあり、焼き畑ビジネスの火種、釣り の餌として多用される傾向にあります。 これがいわゆる 「対立煽りのビジネス利用」 です。
多くの2ちゃんねるまとめブログが匿名で運営されていることもあり、中には対立するそれぞれの立場のブログやサイトを同時にいくつも立ち上げ、おのおの異なる正反対のまとめを行って互いに煽りまくっているようなケースなどもあります。 こうした対立煽りを真に受けて必死に反論や罵倒、啓蒙のレスやコメントをつけている人は、「業者の 養分 になっているだけ」 との冷ややかな見方がされますが、当の本人も自分の書き込みで何かが変わると信じて活動しているケースは稀で、単に自身の正義感や信念に酔ってストレス解消しているだけの暇つぶしだったりもするので、なんとも言えない感じです。
これらの 「盛り上がり」 がそのコミュニティやサイトの利用者の間だけに留まっているうちは 嫌なら見るな ともいえ、まだ良いのでしょう。 しかしこれらの話題はしばしば悪い意味で バズ ったりして無関係の外の世界にも 拡散 し、煽り耐性 や ネットリテラシー のないフラットな人までが対立煽りを真に受けて スルー(無視する) できずに憎しみなどを覚えて バトル に参加、「単なる煽りから本当の対立」「対立の深刻化」 に至ってしまう場合もあります。
人権問題で対立を煽って名前を売る、お金を稼ぐ人たち
また SNS を通じて 可燃性 が高い人権問題、とりわけ外国人差別問題や女性差別問題、フェミニスト活動と云った分野で、雑 で逆差別的、やたらと攻撃的・他罰的 な暴論を振りかざして注目を集め、おかしな市民団体を次々に作るなどして寄付金や著作の販売を行う人たちもいます。 こういった ジャンル や カテゴリ は大手メディアなども好意的に取り扱いますし、暴論を書き込む人は多くの フォロワー を抱えて影響力のある インフルエンサー や論客として名を上げられますから、SNS が普及した後は、むしろこちらの方が深刻な問題かも知れません。
対立煽りビジネスでお金儲けしていた人たちは、仮にそれが原因で対立が激化し事件が起こったり社会問題化したとしても、よほどわかりやすい誹謗中傷を行い名誉棄損・侮辱罪で訴えられるなどしない限り、責任を取ることもなければ表に出ることもありません。 煽られそそのかされた当事者たちだけが対立や憎しみを植え付けられ先鋭化し時に責任を取らされるだけに終わりますから、迷惑もいいところです。
対立・憎悪と、分断
対立や憎悪、そして分断は、おおむね同じようなものだと考えられがちですし、話し合いをするなどして相互理解に努め、なるべくその状態は避けましょうというのが今日的な良識に照らしたあるべき姿ではあります。 話せばわかる、みんな仲良くみたいな考え方です。
とはいえこれらは、その場に参加している人の多くが立場や形は違えど話し合いによって物事を良い方向に進め、意見の対立があればお互いに譲れるところは譲って合意を作るという共通の目的意識や誠実さが大前提にあってこそです。 他人に罵詈雑言をぶちまけて気晴らししたいだけの人、他人の話など一切聞く耳をもたない人、自分の意見が全てで0か100かの勝ち負けしか頭にない人、合意形成など全く興味がない者同士の話し合いには憂さ晴らしや娯楽以上の意味や価値などほとんどないでしょう。
互いの価値観が異なる以上、同じ社会に住む者として 共有 すべき最低限の常識や倫理といった部分はある程度ありつつも、それを超える部分については分断を避けることはできません。 それぞれが持つ好みや考えを一方的に排除せずに一つの社会の中で何となく共存させるのが多様性と呼ぶならば、深刻な対立や憎悪を避けるために見て見ぬふりをして余計な摩擦を避ける分断は、むしろ共存のための知恵だと云えなくもありません。
肉食主義者と菜食主義者が同じ鍋を囲むことはできなくとも、それぞれが自分の好みに合った弁当を持ち寄って、同じ部屋で和やかに食事をすることはできるかも知れません。 何らかのテーマで議論するにせよ対話するにせよ、それは歩み寄れる余地のあるテーマなのか、結論を出すべき課題なのか、その場や自分を含めた参加者がそのテーマで建設的な議論・対話をするに足る存在なのかを問うことは、不毛な言葉の応酬によって分断から対立、憎悪に関係性が悪化するのを食い止める、大切な部分かも知れません。
憂さ晴らしの論破ゲームや娯楽としての議論や対話をことさらに排除する必要はありませんし、実際問題そんなことは無理ですが、少なくとも憂さ晴らしのくせに自分の議論や対話が合意形成を目指した建設的なものであるかのように装ったり、あるいは本人が無意識にそう思い込むのだけは避けたいものです。 それはとても難しく、勇気のいることだと思いますけれど (偉そうに云っている 筆者 だって全く実践できていませんが、少なくともそうした意識とそれに基づく羞恥心くらいは持っていたいなと思います)。