雨や汗で服が濡れて… 「濡れ透け」
「濡れ透け」 とは、雨や汗などによって着衣が濡れ、服の下の下着や裸体が 透け て見ている状態を指す言葉です。 雨による濡れ透けは 「雨透け」(レイン透け)、汗は 「汗透け」(スウェット透け) と呼ぶ場合もあります。 広い意味の 透けコス の一種ですが、日常生活でも目にする機会があって身近な存在でもあるので、生活感やリアリティがある、想像力を刺激すると愛好する ファン が多い微エロ演出の一つでしょう。
また濡れた服は体にぴったりと貼りつき、独特のシワも寄って 乳袋 にも近いような状態となりますから、単に裸体が透けて見えているだけでなく、ボディラインもより強調された表現となります。 濡れ透け自体は現実世界であればブラジャーの紐や形がくっきりと見える程度のものですが (それでも女性にとったら 不幸 もいいところですが)、髪の毛 も濡れて風呂上がりのような色っぽさもあり、そのエッチさは見える部分だけではない破壊力があると云って良いでしょう。
対象となる キャラ の性別は問いませんが、やはり一般的には女性キャラが多く、男性にとっては日常生活に潜む出会えたらラッキーに感じられるようなエッチ (ラッキースケベ) の一種としばしば考えられています。
なお下着姿で女性が興奮し、性器が濡れることで パンツ が透けて性器や陰毛が露わになることを濡れ透けと呼ぶこともありますが、あまり一般的ではないでしょう。 一方、成人向け のグラビア誌やアダルト本 (1980年代のビニール本とか) で、パンツが透けるように霧吹きなどで水をかけて撮影する方法も、同じく濡れ透けと呼ばれていました。 当時は局部露出はもちろん陰毛露出であっても わいせつ図画 として違法でしたが、「パンツが透けて中身が見えるような、見えないような」 状態なら、お目こぼしの余地があったのですね。
パンツにも多少の加工をしたり、濡れ透けに適した薄手のものを選んだり、しかし透けすぎたものは結局修正や摘発対象になってはいましたが、ギリギリを攻めたものが結構出回っていました。 「濡れ透け」 という言葉自体も、こちらの 界隈 から生じて広まったか、先んじていた印象があります。 一方で雨透けとか汗透けという言葉は、しばしば単なる状態描写や シチュエーション を超えた物語がバックにあり、いかにも おたく や 同人 の世界の言葉や 概念 という気がします。
雨の日の放課後、同じクラスの女の子の濡れ透けにドキッ
創作物における濡れ透け表現は大きく分けて2種類存在します。 一つは下着だけが透けて見えているもの、もう一つは下着をつけてないか、つけていても下着すら透けて裸が見えている状態のものです。 また濡れ透けが偶然に起こったものだとする表現もあれば、女性キャラに 露出願望 があったり、片思い・意中の相手へのお色気作戦として見せる意図があり、最初から最後まで、あるいは途中まで、透けているのを気づかないふりをして距離を詰めるような積極的に行うものもあります。
基本的には上半身部分で透けることとなり、服装としては白色で薄手のワイシャツやブラウスが最も適しています。 学校の 制服 は ブレザー ならば夏服はワイシャツ1枚となりますから、リアル世界で出会う濡れ透けも大半がこのケースを指すこととなります。 セーラー服 の場合も夏は薄手で半袖、白色の通称 「白セーラー」 となりますが、ワイシャツに比べると透過具合はかなり抑えられます。
現実世界では、ある程度の年齢となると雨の不安がある日などはインナーをもう1枚身に着けるといった濡れ透け防止の方法を行うこともありますが、突然のにわか雨に遭ったなどでは、防ぎきれないこともあります。 もっとも創作物であれば、どのくらい透けさせるかなどは 作者 の考え次第なので、申し訳程度に服のシワをちょっと描くだけで、実際は下着姿そのもの、あるいはおっぱいや乳首をそのまま露出しているかのような描写となることもあります。
あまりに透けすぎるのは、リアリティがないと思われがちなものの
こうした描写に対しては 「そこまではっきりと透けることは現実にはありえない、萎える」「ここまで透ける素材はなく意味不明、謎服 だ」 とする人がいる一方、「イラスト だから」「そういう 絵 だから」 との反論もあります。
もっとも人間の目は目で見たもの以外のものも見ることができます。 錯視と呼ばれる脳の錯覚もありますし、視覚情報の誤りや欠落の補完を脳が無意識に行うこともよく知られています。 わかりやすい例で云えば、月がとても大きく見えたり (写真に撮って確認すると、構図や画角の違いはあるにせよ肉眼で実物を見た時より圧倒的に小さく見えてびっくりしたり)、マスク などで顔が隠れていると美人や イケメン に見えたり、あるいは壁のシミが人の顔に見えたり、錯視によって視覚的には物が2つに見えたり立体感を喪失してもある程度は正確に知覚できたり。 さらにはその時は見えてなくても、後で思い出した時に見ていないものをはっきりと見たかのように実感を伴って記憶していることもあります。
エッチなことで頭がいっぱい、多感で思春期真っ盛りの中学生や高校生くらいの男子ならば、興奮や 好奇心 の高まりのあまり 「心の目」(心眼) で 「透視」 が出来たとしてもなんら不思議ではありません。 むしろこの年代で心眼といった能力を使えない方がおかしいです。 「あばたもえくぼ」 ではありませんが、それが単なる錯覚や記憶違いなのだとしても、本人がそれを現実だと 認知 したら、それが本人にとっての現実です。 まぁそれが行き過ぎると能力じゃなく症状になるような気もしますが。
イラストや絵といった創作物は現実や機械的に撮っただけの写真とは異なり、描いた人の意図や煩悩を想像力、構想力で膨らませた虚構を含んでこその創作です。 それは心眼のアウトプットと云って良く、単に現実を模写したり具象化したものではありません。 作者がどう感じたか、それをどう表現したいのかが創作物の本質であり最大の魅力・醍醐味なので、現実の事象と引き比べて 「こうはならない」「実際は違う」 と細かくあれこれと難癖をつけても始まりません。 それでは印象派絵画や抽象画を写実的ではないから無価値だ、カメラが発明されたので絵描きは全員失業だ、あるいは世の中がこんな風に見えている画家は異常者だ、退廃芸術だ排除しろ規制しろと攻撃していた人たちと何ら変わりがありません。
「創作を楽しむ」 ということは、多くの場合、現実のそれと作者の想いや時として痛々しいほどのリビドーを 共有 し共感し、見る側の想いも加えて再創作することであって、その面白さや感動はしばしば虚構とリアルの隙間に生まれます (虚実皮膜)。 少なくとも現実といちいち比較してわずかな違いを 叩く ためのものでもなければ、作者を無知だ下手だと誹謗中傷するためのものでもないでしょう。 現実と創作物の絵やイラストとの違いや区別がつかない人は、とても気の毒な感性の持ち主でしょう。 また違いや区別がついた上で、相手を叩くために気が付かないふりをする人の品性は、とても下劣なものだと思います。
なお現実を現実としてそのまま描く、場合によっては超現実とも呼べるほど現実感・リアリティを追及するような描き方もあります。 それらはスーパーリアリズムなどと呼びますが、この場合は単純に技術的見地からの鑑賞がされることもあります。 ただしそうでない場合もあります。 現実だろうが創作物だろうが、見る人によって様々に見えたり 解釈 されるものなのです。