手足を失った存在は、ただかわいそうなだけの存在なのか… 「四肢欠損」
「四肢欠損」 あるいは単に 「欠損」(Amputee/ アムピュティー/ limb loss) とは、四肢に欠落や損壊、機能喪失が生じている キャラクター のこと、あるいは欠損する過程などを描いた作品 (四肢切断) やその ジャンル のことです。 例えばキャラが少女なら、「欠損少女」 といった呼び方になりますし、既存の アニメ や マンガ の特定のキャラクターで欠損描写を行う場合は、キャラ名やその略称・愛称を接尾して欠損〇〇といった呼び方をすることもあります。
近接するジャンルには奇形や異形、身体障碍、身体 (肉体) 改造、サイクロプス (1つ目) などがあり、虐待 や流血、リョナ (猟奇的な オナニー)、ヤンデレ あるいは SM や首絞め、最終的には殺害などもあります。 欠損に関しては、指や手や足がない場合はそれがそのまま手欠損・足欠損や手なし・足なしなどと呼んだり、不具や片端、四肢全てがない場合はダルマや芋虫と呼ぶケースが多いでしょう。 手足だけでなく胴体もなく頭部だけの場合は ゆっくり の影響から饅頭と呼ぶこともあります。
いずれも言葉自体がすでにかなりの差別的なものですし、内容もグロテスクかつマニアックなジャンルであり、見る人を極端に選ぶ創作ジャンルや テーマ です。 フェチ や特殊な 性癖 として少数派ながら存在感はありますが (何といっても絵面から受けるインパクトが大きいです)、一定の範囲で根強い人気を持ちながらも 検索除け やら 隠しページ・裏アカ でのみ公開やらで、あまり表面には出てこない隠れたジャンルだとも云えます。
なぜ隠すのかと云えば、当然ながらこうした描写に強い嫌悪感を覚える人が少なくないからです (ここでも欠損に選ばれがちな作品名やキャラ名、描写の内容などを具体的には紹介しません)。 また何よりもそうした人たちが 「キャラ〇〇をこんなひどい目に遭わせている異常者がいる」「ヘイト表現 だし不快だ」「身体障碍者に対する差別だ」「消えろ」「通報する」 などと騒ぎがちなので、それを避けようという強い防衛感情やジャンル内の お約束 という部分もあります。 とはいえこれらの表現が表に出てきて悪しざまに広がる理由の多くは、反発を覚える アンチ による 晒し上げ だったりもするのが、本末転倒な部分ではあります。
なおロボットものや 人外 (例えば妖怪や ゾンビ) の一部のように、人間ではないけれど人型やそれに近いキャラの身体の一部が破壊されたり切断されるような描写が、欠損表現の代替として用いられたり好まれているという指摘もあります。
一方、人間の欠損の中でもとりわけ特殊な存在として、ヤクザ (暴力団・反社会的勢力) らのケジメのつけ方でもある 「指詰め」 があります。 謝罪などのために自ら手の小指の第一関節から切断するような行為で (回数が増えると両手小指の後に薬指を落としたり、第二関節まで行ったり)、いわゆる四肢切断ではありませんし、ここでいう 「欠損」 には含まれない場合が多いでしょう。 当然ながらヤクザものの創作を欠損ものと呼ぶことも (原則的には) ありません。 一部のヤクザもの作品などでは、指詰め者が指を折って数を数える際に間違える (5本指を折ってるのに4とか4.5とか扱いされる) は、昔から 鉄板 のギャグともなっています。
欠損を避けるべきか、真正面から描くべきか問題
身体障碍などもそうですが、日本においては人間の欠損を創作物として描くことはほとんどタブーになっている部分もあります。 数少ない例外は隻眼や前述したロボットや人外、ヤクザの指詰めや時代劇の斬り合いくらいなものでしょうか。 これは社会的弱者たる障碍者や肉体に欠損を持つ人間を見世物にするのは良くないとか人権団体などによる抗議を恐れるなど、様々な理由があります。
戦争や事故、障碍の悲惨さや辛さを描く作品のように欠損を 人権 に配慮しつつ真正面からテーマとした作品ならともかく、そうでない作品に障碍者や四肢欠損者が 「その他大勢のありふれたキャラの一人」「娯楽の一要素」 ましてや 「悪役」 として描かれることはほとんど皆無といって良いでしょう。 車いすに乗った影のフィクサー的な老人などはひと昔前までは珍しくない時代もありましたが、これも時代とともに減っていますね。
近年ではこうした人たちの身体も 「一つの個性」「多様性」 と見なして必要以上の配慮や忌避をやめようという空気もあります。 あえて分かりやすい形で描く作品も出てきてはいます。 しかしそのキャラを善人として描くか悪人として描くかでも判断が難しいですし、個性や多様性という柔らかい言葉にしたことで 「人それぞれ何かしらあるのだから平等だ」「自己責任だ」 との意識が社会や健常者の間で強くなりすぎ、配慮する必要が薄れてしまうのも 「それでいいのかな」 と思う部分はあります。 いずれにせよ 「触らぬ神に祟りなし」 で避けらがちなのは今後もあまり変わらないのかなという気もします。
なお1980年代前後を中心に、いわゆるサブカルブームの中で、障害者差別や いじめ を面白がるムーブメントがありました。 露悪 や偽悪としてことさらに不謹慎で不道徳で残酷・グロテスクなもの、見たくないもの、汚いものなどを面白がる文化ですね。 これはこれで偽善や建前ばかりの世の中に対する 「本音で話そうや」「俺も クズ だがお前らだって似たようなもんだろ」 という恵まれたポジションにいる人 (比較的高学歴で富裕な人たち) のカウンターとしての底辺ごっこではありますが、マンガやアニメといった おたく に近い部分にも影響を与えている部分はあります (一部は明確に地続きでしょう)。
「BIID」 や 「アポテムノフィリア」(四肢欠損性愛) と呼ばれることも
創作物ではなく、実際に障碍者だけに魅力や性的な興奮を覚える人たちの存在や、手や足を切り落とす行為に興奮を覚えるタイプの人たちもいます。 弱々しい相手に対する同情や加害感情に基づく征服欲などではなく、純粋に四肢欠損の状態や欠損に至る過程に興奮する存在です。
これらは BIID (アポテムノフィリア/ 四肢欠損性愛) と呼ぶこともあります。 かつては精神異常や倒錯の一種だとも思われていましたが、その後、身体イメージに対する感覚や 認知 のズレが原因だともされているようです。 欠損しているのに手足があるかのように錯覚してしまう 「幻肢」 の逆で、欠損こそが本来あるべき姿だと認識し、手足に強い違和感や嫌悪を覚えるというわけです。
実際のところ、身体や手足のイメージは、手足の触覚や神経だけでなく 脳内 の感覚によるところも大きく、誰でも持っている感覚が少しだけ異なるだけだとの認識もされるようになっています。 本人の手と作り物の手を2つ並べてペンを突き刺すと、そのうち作り物の手を刺しても錯覚して痛みを感じてしまったり、鏡に映した手を刺すと逆側の手に痛みを感じることなどが実験によって知られています。 自分の身体の一部ではあっても、その感覚はあやふやなものでもあるのでしょう。
個人が自分の責任において自分の身体をどう捉えどうするかは究極的には本人の自由とは云え、四肢欠損は日常生活に不可逆的な著しい困難を持つことであり、また公的な支援の対象でもあるため、「愚行権の一種だ」 として自由意思に任せることを肯定するのは社会的に難しいでしょう。 生活に苦痛を覚えるほどの違和感があっても、メンタル面での対応が求められるものだと云えます。
日本ではほぼ消えてしまった 「傷痍軍人」 という存在
一方で、これは戦後しばらくした日本ではあまり指摘されることが少ないように感じる点ですが、日本と欧米を見比べた時に大きく異なる点に、四肢欠損や身体障碍・車いす利用者における傷痍軍人の存在の有無があります。 現在の日本では身体障碍の大半が生まれつきの障碍や病気・事故、あるいは加齢といった個人的理由によるものですが、欧米では国の命令によって戦場で負傷し手足を失ったり歩けなくなった傷痍軍人や退役軍人とその家族が数多くおり、その後も新しく生じています。
日本は第二次世界大戦以来、国権の発動たる戦争をしたことがなく、朝鮮戦争時の機雷掃海作業や国際貢献活動で被害に遭われた方がごく少数いるものの、存命している傷痍軍人は高齢となった方がごくわずかいらっしゃるといった状況です。 もはや傷痍軍人という言葉自体、ほとんど使われなくなったと云って良いでしょう。 しかし欧米、とくにイギリスやアメリカではその後も何度も大規模な戦争や戦闘を行っており、戦場で 「名誉の負傷」「身命を賭した貢献」 により受けた四肢欠損者・車いすの元軍人やその家族が社会に大勢います。 身体だけでなく、PTSD (心的外傷後ストレス障害) を始め精神面でのトラブルを抱えた存在もクローズアップされています。
彼らは国家のために命をかけて戦い負傷して生還した祖国の英雄です。 また軍人や元軍人、あるいは傷痍軍人会といった団体の行動力や社会的地位も日本とは比べものにならないくらい高く、政治的にも強い影響力を持っています。 大統領や首相などは折に触れ負傷兵を見舞ったり傷痍軍人会を表敬訪問したり、軍事的な式典はもちろんそれ以外の記念式典でも最前列に彼らを列席させてその栄誉を称えています。
こうした状況もあり、肢体の欠損・機能不全・全廃といった障碍者全般に対する社会の認識が、日本とは根本的に異なる部分があるのですね。 いわゆるバリアフリーといった考え方も、日本のように単に社会的公平さや弱者救済、共生や優しい社会といった観点に基づく慈善事業などとは異なる意味や、対象者を称えるような価値を持っています。
街中で通りすがった退役軍人に 「あなたの奉仕に感謝します」 みたいに謝辞を述べる現役軍人やその家族、一般市民は欧米ではわりとありふれた存在だとも聞きます。 日本ではまずあり得ないことではありますが、戦争そのものの良し悪しはともかく、自分が住む国のために命を賭けて困難な仕事に取り組んだ人々に対する感謝は、平和な時代だからこそ心がけたいと思ったりもします。
ちなみに 筆者 は子供の頃、町の 祭 に傷痍軍人さんの物貰いがいて、当時すでに傷痍軍人さんの物乞い行為は法で禁止されてほとんどいなかったそうですが、偶然見かけてなけなしの50円玉を缶に入れて善行したつもりで鼻息を荒くしたことがありました。 その後母に 「大人を馬鹿にするな」 ってひどく叱られました。 当時は理解不能でしたが、いくらバカなあたしでも成長して高校生くらいになったらわかるようになりました。 自分で稼いだわけでもない小銭を偉そうに年上の人間に恵むなど、偽善の最たるものでしょう。 「やらない善よりやる偽善」 とはいうものの、大人になって分別着いてからのそれとは意味も違うのでしょうし。
生意気なのは子供の特権とはいえ分相応ってのは大事で、善意でも悪意でもそこを外れるとろくなことがないってのはそれ以外の失敗や赤っ恥を通して今では身に沁みてます。 身体機能や容姿だけではなく (もちろんそれも大事なのでしょうが)、何より人の内面に思いをいたし、同じ人間だし平等な存在だと心から思えて尊重できるようになることが、大切なのでしょうね。