「児童ポルノ法改悪」 について、ものすごく個人的で雑多なイメージ
|
ネット 上で 児童ポルノ法 の改正に関する話題が盛り上がっているようです。
先月末あたりから断続的に方々でニュースがでていますが、日本ユニセフ協会などの規制推進派が昨年からネット上で署名活動を開始したり、様々なロビー活動、マスコミへの働きかけを活発化してきて、いよいよこの6月26日から 「単純所持禁止」 を含む 「児童ポルノ法改正」(自民・公明案) の審議が開始されるようで、かねてから反対していた ネット住民 らの動きも急となっているみたいですね。
この問題に関しては、1998年から膨大な量の反対の文章をこのサイトや他の場所、書籍などでずっと 筆者 は書いてきましたし、その考えは現在も全く変わりません。
繰り返しになりますが、「児童ポルノの定義を厳密に決めてください」「単純所持の禁止はやりすぎです」「創作物の規制には反対です」「現実の児童を守り、また実際に被害に遭った児童の心身のケアに重点を置いた法律にしてください」 の、4つだけです。
ネット上では多くの反対の立場で活動されている有志の方々が情報をまとめたり、データを収集したり、規制派の矛盾点を突いたり、具体的に反対の意思表示をしています。 そうした方たちの活動や仕事に勇気付けられ感謝しながら、ネットを中心に10年間愚見を書き連ねてきた売れない元漫画家でオタクな筆者が、だらだらとさらに愚考を書き連ねてみようと思います
いつも以上に感情に任せたどうでも良いただの雑文で、他のページと内容が重複する部分も多いのですが、現時点での筆者の考えを、あけすけに書いてみたいと思います。 読む人が かわいそう です。 でも書かずにはいられません。
創作物の中の犯罪行為描写について
なぜ多くの文芸作品、映画やドラマや舞台作品などでも、これ以上ない人権侵害である 「殺人」 の描写がこれほど多く、またその存在が社会的に許容されているのでしょうか。
それは 「殺人という極限状態」 で初めて現れる人間の尊厳とか人の心の中にある目を背けたくなるような醜さ、葛藤、愚かさ、滑稽さ、社会のありようなどを表現として、芸術として、現実の人間を誰一人傷つけることなく真正面からえぐったり白日の下に 晒す ことができるからだと思います。 それは何も殺人に限らず、不倫とか 変態性欲、あるいは大災害や天変地異、戦争などの、「現実に起こるのはまっぴらごめん」「巻き込まれるのはイヤ」 なあらゆる極限状態の描写にそういう要素があります。
だからこそ、こうした極限状態を 「誰も生身の人間を傷つけず想像上の作品」 として紡ぎ提示する芸術家とか作家、クリエイターと呼ばれる人たちの仕事を評価して経済的な援助や対価を支払う人がいるのだし、彼らは社会から一定の評価や時として尊敬を得て食っていけるのでしょう。 またそういう表現の営み、積み重ねが文化となり、しばしばその時々の価値観で眉をひそめたくなるような醜悪な表現、タブーを犯すような刺激的な表現をも生み出しながら、古い考え方や因習を打破し限界を突破し、ひいては思想の発展や意識の進化にも大きく役立ってきたのだと思います。
奇麗事ばかりいっても、世の中には醜いもの、目を背けたくなるようなものがたくさんあります。 創り手たちは、それら清濁を併せ呑んで、複雑な社会に生きる 読者 なり視聴者なり観客なりに日常生活ではありえない、あって欲しくもない極限の判断を擬似的に迫ったり、何かを考えるきっかけを提供したり、一時の慰めや気晴らし、暇つぶしを手渡すことができる。 平凡な毎日を送るちっぽけな人間が、歴史を追体験したり、他人の人生を疑似体験したり、はるかな未来や宇宙の果てに思いをはせたりして、生活を豊かに彩ったり、明日への生きる意欲を貰ったり、下世話な刺激や 好奇心 を満足させることができる。
それこそが、創作という 「人間が生物として食うためには別にあってもなくても良いもの」「生活必需品ではない無駄なもの」 である文芸や芸術や文化の、歴史的な存在意義だと筆者は考えています。
「A」 を入力したら、必ず 「B」 が出力されるという考え方
本当に子供を守るため? 疑惑があるから法案や改正に 賛成できないのです |
規制派、人権派と呼ばれる人たちに決定的に足りないのは、複雑で豊かな人間の精神、心のありように対する深い洞察力や想像力、または素朴で心からの畏怖や信頼だと思います。
彼らは、「人は変な本を読むとその影響を受けて犯罪に走る」「悪い ゲーム をすると心の回路が壊れる」 などと、まるで人間が、スイッチを入れたら電気がついたり消えたりする機械、装置であるかのような単純な見方をします。
人間はそんなに単純 (あるいは合理的) なものなのでしょうか。 そんな簡単な 「構造」「仕組み」 だったら、凶悪犯罪なんかとっくに根絶できてやしませんか?
フィクションのヤクザ映画を見た後は観客がその気になって肩をいからせて劇場から出てくるなんて笑い話もあるけれど、その人間に刃物を渡して、「さあこれで映画の 主人公 のように、気に食わない人を刺してください」 で刺せるのか。
感情移入 したり興奮したり仕草や格好に一時的に影響を受けることはあっても、そこから人を殺したり、あるいは実際に泣き叫ぶ子供や女性を力ずくで襲うこととは、遥かな遥かな距離があると思います。 そもそも 「強力効果論」(環境犯罪誘因説/ 創作物の影響は、それを見た者を犯罪に走らせる効果があるとの説) は、どんどん化けの皮が剥がれてきているじゃないですか。 裏付けるようなきちんとした統計データも、根拠も出てきません。
美しいものの対極には常に醜いもの、汚いものがあるし、それは受け取る人によって、あるいは時代や国 (文化) によっても、どちらが美しいか醜いかが違います。 絶対的に正しいものなどなく、時として白が黒になったり、灰色になったりもする。 人間誰しも奇麗事だけでは済まず、どす黒い欲望も持ってはいるけど、他人に迷惑をかけず、傷つけず、こっそりと自分の心の中で処理して生きているのがほとんどだし、それは誰に文句を云われる筋合いのことでもない。
それを 「これは白だ」「いや黒だ」「有害だ」「この世に存在してはいけないものだ」 と顔の見えない誰かが断定して、勝手に法律を作って、それに従わないものを牢につなぐ。 そぐわないものを炎に投げ入れる。 内面にまで踏み込んで、疑わしきを罰する。 これが 「人間性への冒涜行為」「文化に対する破壊行為」「人権に対する挑戦」 でなくて、いったい何なのでしょうか?
芸術と大衆娯楽、アートとポルノ
ヴィーナスの誕生/ La Nascita di Venere/ 1483年頃 |
誹謗(ラ・カルンニア)/ La Calunnia/ 1495年頃 |
筆者の大好きな画家に、ルネッサンス時代のサンドロ・ボッティチェリがいます。 左図の 「ヴィーナスの誕生」 が有名ですが、彼の健康的でエロティシズムに溢れた美しい裸婦画は、修道僧のジロラモ・サヴォナローラが行った宗教改革と異教撲滅運動、そのピークであるいわゆる 「虚栄の焼却」(1497年) によって、その多くが炎に焼かれました。
「ヴィーナスの誕生」 など一部の作品は、郊外の別荘にあったり、時の権力者メディチ家の力などで現代に残りましたが、多くはフィレンツェの空に立ち上る煙となって消え失せました。
「宗教画で芸術であるボッティチェリの 絵画 と、ヌード写真集やアダルトアニメは違う」 と云われそうですが、ルネッサンスは古代ギリシアやローマの彫刻などの発掘とその模倣 (再生と復興) から始まっていて、元となった彫刻は、古代ギリシアやローマ時代には娯楽のためのものでした。
また宗教画のスタイルを取ったのは、当時はまだ 「絵画や絵筆は神の栄光を描くためのもので、人間を描くためのものではない」 という時代だったからです。
宗教画のスタイルを取りながら、実際に描いていたのは人間、そして女性や女性の裸体の美しさでした。 芸術と娯楽の差などありません。 その建前を鑑賞する市民や権力者も、ちゃんと分かっていた訳です (後にこれが一つの契機となり、「人間を人間のまま人間として描くこと」 が、芸術の世界で誰に憚ることなく、できるようになったのでした)。
絵画を焼き純潔で禁欲的な生活を訴えたサヴォナローラは、後に市民らから激しく糾弾され広場で火あぶりにされ処刑されました。 狂気の時代は去りましたが、焼かれて失われた多くの絵画は、もう二度と戻りません。 虚栄の焼却の前からサヴォナローラに傾倒していたボッティチェリの作品は精気が失せ、その頃描かれた誹謗(ラ・カルンニア)の、画面の片隅に追いやられ見るも無残に痩せこけたヴィーナスなどを見ると、そのあまりの変わりように涙が出てきます。
多くの漫画家が描いてきた作品が国によって消されたり、現代の日本の漫画家やイラストレーター、クリエーターらが身の危険を感じ、そんな変わり果てた絵を描く姿を、筆者は絶対に見たくありません。 またそんなことになった未来の世界を、今の子供たちに残したくありません。 こうした独善的な正義による文化破壊、思想弾圧は、ナチスの退廃芸術狩りしかり、中国の文化大革命しかり、幾度となく人類は多くの流血と共に行ってきましたが、もう二度と起こらないとは誰にも云えないでしょう。
日本ユニセフ協会やアグネス・チャンらの 「子供の人権が何よりも大切」「だから性的な マンガ や アニメ を持つことを法律で禁じろ」 という考えが、もし本心から出たものなのであれば、「人間への愛、尊崇の気持ち」 や 「深い理解」 が、決定的に足りないと感じます。 そういう人間が 「自分たちだけの正義」「自分たちだけの道徳」 を振りかざし法と罰で創作物、つまりは人の思想、人の考えそのものを押しつぶす時、その先に必ず多くの流血と地獄が待っているのは、これまでの人類の歴史が証明しています。
もし本心から出たものではなく、単に独善的で宗教的な道徳観、純潔主義でもって 「ポルノ狩りをしたいだけ」「外国の倫理観を持ち込みたいだけ」「自分たちにとって不快なものをなくしたいだけ」「偽善で名誉や利益を得たいだけ」 なのなら、恥を知れと思います。 またそうした活動を無頓着・無批判に、あるいはある種の意図を持って喧伝するマスコミ関係者を、筆者は心から憎み、また軽蔑します。
「児童ポルノ法改正による単純所持禁止」 について、思うことのとりとめのない断片
今回 (2008年提出、2009年6月審議入り) の自民党・公明党の改正案では、実際の児童が性的虐待を受けた結果撮影された 画像 や動画 (児童虐待の成果物としての違法ポルノ) の 単純所持禁止 が大きな柱ですが、将来の創作物規制 (アニメやマンガ、ゲーム) へ繋がる文言がしっかり明記されたものとなっています。 つまりこの法案が可決成立して施行されると云うのは、将来の創作物規制が既定路線に乗ることを意味します。
規制は原則として厳しくなる一方ですが、場合によっては後で緩和されることもあるでしょう。 しかし 「単純所持禁止」 となると、話は別です。 規制時点でそれ以前の創作物はこの世から消えてしまいます。 蒸発してしまうのです。 一度消えたものは、後の世で規制が緩和されても、二度と戻りません。
規制推進派の主張は首尾一貫していて、1998年段階から、「創作物を含めた規制」「単純所持の禁止」 です。 1999年段階で賛成が得られなかったので、「3年ごとに見直す」 という規定を入れて、3年ごとに 「創作物の規制」 と 「単純所持の禁止」 を法律に盛り込むための運動を繰り返しています。 今回は、「両方いっぺんに通す」 のではなく、「先に単純所持禁止のみを通す」 ことにしただけで、中身は10年前から変わっていません。 そしてその禁止すべき物品は、世界基準からかけ離れ極端に厳しく、また定義が非常にあいまいな、子どもポルノ (児童ポルノと仮想ポルノ) なのです。
単純所持禁止ってのは、所有を禁じるって意味じゃありません。 所持を禁じる、つまり 「ちょっと手で持ってみただけ」「触ってみただけ」 もダメってことです。 実際に拳銃は、それと知って手に持ってみただけで違法で逮捕だし、麻薬だって原則同じです。 単純所持禁止が法律で決まるってのは、マンガ本やパソコンのデータが、そういうものと同じになるってことです。 あまりにすごすぎて、逆に実感がわかないね。 でも法律が決まったら、そうなるんだよね。 最近では、「見るだけでも違法」 という主張も出てきました。
自称18歳の女性がエッチなビデオに出演して、その動画を収録した DVD が付録についた雑誌が発売されて、数万部が売れた。 その後その女性が、実は16歳だったことが発覚、雑誌は回収されて、撮影したカメラマンも逮捕されるという事件がありました。 この女性は過去にも別のビデオに年齢を偽って出演していたことがあって、報道によれば、今回は2度目だったようです。
エッチなビデオを作る人に、厳格な 「年齢確認の努力義務」 はあって当然だから、女性が嘘をついていたとはいえ、確認義務を怠ったことによる過失、罪はあるでしょう。 しかしこの雑誌を買って、DVDを見た人はどうだろうか。 雑誌には18歳って書いてあるし、この女性が偽造した高校の卒業証書までついていた。 それでも本当は16歳なんだから児童ポルノになるし、単純所持が禁止となったら、この雑誌やDVDを持っている人は 「児童ポルノ単純所持違反」 で摘発されたら 「性犯罪者」 として逮捕になるのでしょう。
この場合、「被害者」 は年齢を偽ってビデオに出演してお小遣いを稼いだ16歳の少女1人、「加害者」 は、カメラマンや雑誌の編集者の他、数万人もの読者になります。 被害者1人に加害者数万人。 バランスとしてどうなんでしょうか。 もしこれを厳格に取り締まったら、いったい何人の父親が性犯罪者として逮捕され、それによっていくつの家庭が壊されて、どれだけの子供が悲しむんだろうね。
自由にはモラルや道徳、責任がついてまわるのは当然です。 個々人がやりたい放題では世の中が無秩序となり、社会は回りません。 しかしモラルや道徳、責任ばかり強くしても自由が無くなり、たいへん息苦しい世の中になってしまいます。 要は 「バランスが大切」 なのでしょう。 「モラルや道徳、責任や公共性」 が、自由より 尊い もの、より上位に位置するべきものかは、バランスと、その内容によります。 公序良俗の判断基準など厳密に定義することはできないのだし、仮にできたとしても、恐らく時代とともに変わるからです (日本では、裁判所が個別のケースごとに厳格に判断することになっています)。
外国人ばかりが前面に立ち、外から一方的に押し付ける 「モラルや道徳、責任」 と、「マンガやパソコンデータを持っているだけ」 で刑務所に入れられる 「秩序」 は、得られる成果に対して 「バランス」 が取れているのでしょうか。 裁判などを経ず、国や自治体が勝手に基準を設けて取り締まることに正当性はあるのでしょうか。 日本の現行憲法では、モラルや道徳は個々人の自由とし、公共の福祉より個人の自由が優先されると書いてあります。
子供の人権は大切です。 でも、子供がこれから生きてゆく日本という国を、マンガを持っているだけで牢屋に入れられてしまうような国にしないことも、大切だと思います。 「普通のマンガはそんなことにならない」 かも知れません。 けれど、手塚治虫や赤塚不二夫のマンガがバッシングされていた時代を知っている筆者には、「普通のマンガとそうでないマンガ」 の区別がつかず、そんな話はとても信じられません。 「マンガはマンガ」 です。
アニメやマンガ、ゲームも将来は規制の対象になるそうですが、フィギュアはどうなるのでしょうか? ただの絵が禁止なんだから、立体のフィギュアも規制でしょうか。 まして等身大のフィギュアはもっと禁止でもっと規制ですよね? デパートにある子供服のマネキンはどうなりますか? 裸にしてエッチなポーズをとらせたら児童ポルノ法違反で逮捕ですか? 着せ替えドールはどうでしょうか。 え? 極論すぎて話しにならない? ご冗談を。 極論を先に持ち出してきたのは、規制派の皆さんじゃないですか。
ところで拳銃や麻薬は単純所持が禁止されていますが、拳銃と似た形のモデルガンや、紙に描いた拳銃や麻薬の 「絵」 の単純所持は禁止されていませんよね? ただの絵であるマンガやアニメ、ゲームを規制するってことは、人を殺す用途にしか使えない拳銃や、麻薬などより、もっともっと 「危険だ」 と考えていらっしゃるのでしょうか。 その根拠を教えていただきたいです。
アニメやマンガ、ゲームが禁止される場合、小説はどうなるのでしょうか? 規制推進派の多くは、小説って言葉を絶対使わないね (一部の人は云ってますが)。 建前の上では、「姿を目で確認できないから関係がない、ポルノではない」 ってことなんでしょうけど、「有害な情報を受け取ると影響されて犯罪に走る」 という彼らの主張からすると、文章を除外するのは二律背反で 「不誠実」 な態度です。
でもよほどのことがない限り、小説や文章の規制なんてことは云わないでしょう。 「小説の単純所持も禁止」 なんていってしまったら、その狂気が誰の目にもハッキリしてしまって、ムード優先の運動が終わってしまうものね。 でもエッチな挿絵のある ライトノベル や官能小説なんかは、そのうち 「絵が問題だ」 として言い出すかもしれない。 その場合は、その作品が文章が主で絵が従なのか、その逆なのか、あるいは文章と絵とどちらが性欲を興奮させ又は刺激するものなのか、裁判で争うことになるんでしょうか。
単純所持を禁じることで市場が大きく縮小し、被害も減ると規制推進派の方はおっしゃりますが、単純所持を禁止した国で被害が減ったり、児童ポルノ画像や動画の流通量が大きく減った実例が見当たらないんですよね (逆の実例は腐るほどある)。 いまだに世界中の児童ポルノの流通量の多くをアメリカやヨーロッパの国が占めています。
「前提が間違っている」 と、どうして分からないんでしょうか。 警察官や警察の予算は限られているから、規制対象をあまりに広げすぎると、結果的にもっとも悪質な犯罪者が隠れやすくなってしまう可能性があります。 捕まえやすい所から捕まえるのは当たり前の話です。
1人の警察官の目の前に、児童を虐待している人と、エッチな絵を持っているだけの人がいた時、きっと多くの心ある警察官は、児童を虐待している人を逮捕するでしょう。 しかし虐待している人が逮捕しづらい状況で、エッチな絵を持っているだけの人が簡単に捕まえられる状況だったら、どっちを捕まえるでしょうか。 どっちを捕まえても、数字や書類上は同じ 「児童ポルノ犯罪者1人逮捕の実績」 です。
エッチな絵を持っているだけの人が違法じゃなければ、警察官は限られた人数、予算の中で秩序を守るため、あるいは実績を作るため、何としてでも児童を虐待している人を捕まえることでしょう。 全ての警察官が心ある警察官であることを祈ります。
児ポ法の趣旨 (保護法益、法律が守るべき利益) が実在する個々の被害児童の人権ならば、被害児童の人数が増えればその分、罪も増えるはずです。 例えば3人の児童に性的虐待を加えた犯罪者がいた場合、被害者は3人、罪 (余罪) も3つ (3件) です。
ではそれが、写真や動画の製造ではなく 「単純所持」 の場合、どうなるのでしょう。 3人分の写真や動画を持っていた場合、被害者は3人なのでしょうが、罪は3件になるでしょうか。 これまでの日本の法運用の実際や、裁判の判例では、そうはなってません。 販売目的で所持していたり、他人に 頒布 した場合、そこに100人の児童の記録があったとしても、罪が100件になることはなく、1つの罪として立件され、また裁かれています。 児童買春・児童ポルノ処罰法は、「児童買春」 部分と、「児童ポルノ」 部分で、被害者の取り扱いが異なるのですね。
なぜこの両者が一緒になっているのかと云えば、抱き合わせにしないと法律が制定できなかったからですが、そもそもが無理のある法律なのは、強く認識した方がいいです。 ちなみに図書類の規制とかネットの ブロッキング とか、それ単体では表現の自由などの観点で法律が作りにくい、通りにくいものは、あえて児童保護とか児童人権保護などの法律をくっつけて、抱き合わせにして法案を作るケースが日本だけでなく海外でも非常に多いです。
抱き合わせの法律なのに、「児童ポルノ」 に被害者の存在しないマンガやアニメ、ゲームなどの架空の作品を加えようという 「無理」 は、この 「抱き合わせだけど被害者の取り扱いが異なる」 のが、大きな意味を持っています。 要するに、被害者はどうでもよいのです。 児ポ法では被害児童の救済がうたわれていますが、施行後10年、被害児童救済のための施設が作られたこともなければ、まともな予算がついたこともありません。 「守る気がない」 のは、はっきりしています。
江戸時代、お上が 「風紀を乱す」 と禁止した浮世絵や春画は、ヨーロッパではジャポニズムの花を咲かせました。 今、浮世絵や春画の良質なものの多くがアメリカやヨーロッパにあって日本にはありません。 というか、春画に至っては、現段階でも 「わいせつ物」 として美術館などの公共の場で掲示もしづらいし、出版もしばしば制限つきです。 幕府のお役人 = 現在の議員や官僚ですが、庶民文化を弾圧する時に 「風紀」 と 「公益」「改革」 を必ず言い出すのも江戸時代から変わらないのですね。
江戸時代、浮世絵や春画は何度も禁止されました。 お触れが出され、浮世絵師や版元も結構捕まって、蔦屋重三郎なんかは寛政の改革で財産没収されました。 けれど浮世絵や春画を買って 「持っているだけ」 の 「町民」 までは、いちいち捕まえたり罰したりはしなかった。 江戸時代の役人ですらやらなかった規制を、民主主義国家である今の日本がやろうとしているってのは、実に恐ろしいことだとちゃんと認識しないといけない。
春画などは、こんにちの目で見ても完全に2次元のポルノ表現だと思いますが (人物のデッサンに極度の誇張やデフォルメがあるのも、形状や方向性が違うだけで現在の萌え絵と全く同じですし、春画を見ながらオナニーする男性の浮世絵や春画すらあります)、今では立派な文化的遺産、あるいは芸術でしょう。 江戸では当時の社会情勢として男性が女性に比べ圧倒的に数が多く、かなりの割合の男性が独身のまま生涯を終えています。 そんな江戸町民の男性が、ひとときの 「慰め」 に使っていた春画と、現代のエロマンガやアダルトゲームの違いは何なのでしょうか。
しずかちゃんのお風呂シーンでドキドキした子供の頃の思い出、ちょっとエッチなマンガを見て感じたときめき、これを自分の息子に味わわせることができなくて、何の男親の価値があるんだろうか。
絵を描く人なら分かると思いますが、人物画を描く時は、デッサンは裸で描くんですよね。 裸を描いて、それから服を描くんです。 そうでないと、ちゃんとしたデッサンになりません。 単純所持禁止となっても、よほどのことがない限り、服を着た子供の絵はたぶんセーフでしょう。 でも裸の子供の絵はアウトですね。 デッサンの途中は違法、服を描いたら合法、でも消しゴムで服を消したらまた違法、上に服を描き足したら合法。 馬鹿馬鹿しい話ですが、単純所持禁止ってのは、つまりはこういうことなんですね。
本来は 「性的被害、虐待を受けた犯罪記録」 が 「児童ポルノ」 なんです。 だから児童人権を真剣に考えている団体などは、むしろイメージが分かりにくい 「児童ポルノ」 という言葉をやめて、直接的な 児童虐待画像・動画 のような、具体的な名称に改めているところもあります。
予算も人員も限られています。 その限られた範囲で最大限の児童人権救済を行おうとするなら、「余計なもの」 にかまってる暇はないわけです。 目の前で強盗事件が起こっているのに、それを放置して万引き犯ばかり捕まえても仕方ないし、ましてや 「万引きするかも知れない人」「万引きの絵」 を捕まえても仕方ない。
本来の児童人権侵害の防止や被害児童の救済に役立たないことばかり必死でやろうとする人たち、「児童ポルノ」 を 「子どもポルノ」 とか みなしポルノ とか 漫画児童ポルノ とか、もっと分かりにくい言葉にして範囲を広げようとしている人たちは、「たぶん別の目的がある」 と判断しても無理がないような気がします。
1999年以降は、18歳未満の単なるヌード、単なる裸も規制の対象に含まれるようになりました。 その種の内容を含む新しい作品はほとんど作られることがなくなり、ここ数年は皆無といっても良いでしょう。 「製造」 や 「配布」 が禁止なのだから、当然です。 これでもし 「単純所持」 が禁止されたら、今度は過去の膨大な作品が消えることになります。
これが 「わいせつ問題」 なら、例えば映画の一部にそういうシーンがあっても、そのシーンだけ削除したり、映っている部分にモザイクをかけるなりすればOKです。 しかし児童ポルノ法における単純所持の禁止は 「児童の被害救済」 が目的ですから、体の一部を隠しても、その目的は達せられません。 わいせつな描写が問題なのではなく、その児童 (18歳未満) がその映画で裸になっていたという事実がすでに問題になるからです。 また捕まってから 「知りませんでした」 は通じませんから、「ちょっとでもその可能性のあるもの」「判断が微妙なもの」 は、よほどの名作でなければ、いちいち吟味されることもなく、どんどん捨てられてしまうでしょう。
このまま単純所持が創作物 (アニメやマンガなどの2次元に限らず、グラビアや映画なども含める) に当てはめられると、きっと想像を絶する数の映画がこの世から消えるでしょうね。
日本の混浴や、子供が赤の他人の大人と一緒に入る銭湯、温泉を、「おかしい」「異常だ」 って批判してるカナダ人がいました。 でもそんなカナダにはバンクーバーに公営のヌーディストビーチ (レックビーチ) があるし、そこでは家族が裸で遊ぶ写真が 普通に 撮影され、ネットにもそれがごろごろ転がっていたりもします。 Nudism とか Nudist とか Wreck Beach とかで検索したら、そういう画像がいくらでもでてくるんですね。 もちろん無修正の状態でです。
欧米では風呂はトイレと同じ、とてもプライベートな場だから、親といえども子供が一人で入れるような年齢になったら、一緒に入るのはおかしい、父親と娘が風呂に入るのは児童虐待だ、性的虐待だになっちゃう。 そもそもお風呂に対する認識が違うし、バスルームの構造も違う (一人で入れるようになる年齢も異なる)。 だからアニメ 「となりのトトロ」 でサツキとメイがお父さんとお風呂に入るシーンが問題になったり、そのシーンをカットしないと上映できなくなってしまう。 写真を撮るなど言語道断、児童ポルノそのものだという認識になったりする。
ヌーディストビーチが健康的なナチュナリズムの発露で良くて、銭湯や温泉、家族風呂が児童人権侵害でダメってのは、もう児童云々の話じゃなく、ある種の誤解、もっというと偏見や人種差別に基づく異文化否定だと思うよ。 日本では砂浜で裸になるのはダメだし、無修正 (局部 露出) はあらゆる状況でダメだけど、海外のヌーディストビーチやその記念写真を禁止しろ、参加者を逮捕しろなんて他国の文化に文句などいわない。 でも彼らはそれを上から目線の説教口調で堂々と行う。 俺たちの倫理に従え、それが国際基準だという。 G7でやってないのは日本だけとかいう (G7のうち日本以外の全ての国が、白人国家でキリスト教国家です)。
非寛容と差別・偏見は全く同じものだと思うけど、日本人がとっくの昔に到達した寛容の精神 (それが雑多な文化をどんどん吸収し展開する、世界でも稀なアニメやマンガの豊かな作品群が膨大に生まれる土壌になっている) に、彼らはいつになったら達してくれるのでしょうか。
子供が被害に遭うのを防ぐために、大人向けの年齢制限のある有害サイトや情報を規制。 青少年が悪い影響を受けないために、年齢制限のない有害サイトや情報を規制。 そして、被害にあった子供や青少年を守るために、有害サイトや情報を規制…。 方法や方向はいろいろですが、全て 「子供のため」 というキーワードがお題目のように使われ、結論は全て 「有害なものを規制」。
「有害」 か 「無害」 かのたった2種類の分類しかなく、「違法」 と 「有害」 の区別はつけずに、勝手に片方は悪だと決め付けて規制。 それも フィルタリング や単純所持の禁止みたいに、「何が消されたのか」 も検証できない完全なブラックボックス化がされ、「消し去る」 という方法。
「全てか無か」「ゼロサム」 のデジタル発想がやたら多くて、そのくせ扱うのは人権とか精神とか心とか思いやりとかの 「簡単に割り切れない複雑なもの」「アナログなもの」 ばかり。 こういう風潮って、なんだか怖くないですか。 規制派やマスコミの非論理的な善悪二元論を見ていると、なにやらインチキ理論の 「ゲーム脳」 を信じたくなる自分がいます。
ちょっと前までG8で禁止してないのはロシアと日本だけって書いていたのに、今はG7で禁止してないのは日本だけになっていて笑った。 そんなに日本を少数派に見せかけたいんでしょうかね。 ところでG7で無修正ポルノを禁止しているのは日本だけで、売春が非合法なのも日本だけ (客引きや売春宿が禁止でも、売春婦個人が商売するのは禁止されてません)、18歳未満のヌードやエロチカが禁止されているのも日本だけなんですが、こっちは放置していいんでしょうか?
アグネス・チャン氏や 「ECPAT/ ストップ子ども買春の会」 などが繰り返し主張する 「日本は児童ポルノ大国」「世界 No.1 の発信国」 という主張、これはどこから出てどんな裏づけがあるのでしょうか。 アグネスは、日本ユニセフ協会の協力大使になったその日に、スウェーデン大使館で 「世界 No.1 の加害国なのだ」 と批判されたといっています。
「ECPAT/ ストップ子ども買春の会」 の主張では、日本での 1999年の 「児童ポルノ禁止法」 成立までは、世界に流れる児童ポルノの80%近くが日本からのものだとしていました。 そして児童ポルノ禁止法が成立・施行して、その数は数十分の一にまで減少 (ただしまだまだ多い) と主張しています。 その根拠や裏づけのデータは、何なのでしょうか?
女流写真家、清岡純子の少女ヌードなどは、日本では児童ポルノ扱いされて国会図書館などでも閲覧できなくなっていますが、こうした写真集は欧米では児童ポルノとはされていません。 児童ポルノとは、現実の児童がセックスや性的な虐待をされている写真や動画を指す言葉だからです。 いわゆる 「○○援交」 と呼ばれる動画類は児童ポルノでしょうが、これのうちもっとも規模が大きく有名だったシリーズが撮影されたのは2001年〜2005年にかけてで、ネット上に出回り問題となったのは2003年頃から、摘発されたのは2005年3月です (類似のビデオシリーズはいくつかありますが、大半が同じような時期に同じような経緯を経て作成者や販売者が逮捕されています)。
筆者もこの問題では、それなりに資料や書籍、データを調べていますが、「ECPAT/ ストップ子ども買春の会」 のいう、「1999年までは、世界の児童ポルノの80%近くが日本からのものだった」 が、いったいどこからでた話なのか、全く分かりません。 しかし結果としてこの主張が大きく取り上げられ、1999年の 「児童ポルノ法の成立」 に繋がるのです。
なおスウェーデンは1990年代から急速に 治安 が悪化し、女性や児童に対する性的犯罪が急増し続けていますが、これも日本のせいなんでしょうか。 スウェーデン犯罪急増の理由として、移民による治安悪化、行き過ぎた個人主義教育による公共道徳・モラルの著しい低下がしばしば指摘されていますが、これも日本のせいなのでしょうか。
非科学的で偏狭な、行き過ぎた倫理の押し付けがもたらす弊害を示す実例として、しばしば取り上げられるアメリカの 「禁酒法」(ボルステッド法/ 1919年〜1933年)。 様々な示唆を与えてくれますが、中でも 「アメリカ全土でいきなり全てのアルコール飲料が全面禁止されたわけではない」 というのは、マンガやアニメ、ゲームなどの規制が始まっていない現在において、もっとも注目すべき示唆を与えてくれる教訓でしょう。
禁酒法はアメリカのマサチューセッツ州など一部の州から始まり、その後全米に広まりました。 また当初は量を減らすだけの規制だったり、アルコール度数の高いウォッカやウィスキー、ブランデー、バーボン、ラムといった蒸留酒 (スピリッツ) などのみが 「標的」 とされ、その他の酒は禁止されないという触れ込みでした。 そのため、ビールやワインなどの醸造酒 (発酵酒) を主に作る酒造メーカーや流通業者、愛飲者はあまり危機感を覚えず、中には 「ウィスキーやウォッカの客をこちらに取り込める」 と、規制に消極的ながらも賛成する業者などもいました。
その後法律で規制が成立。 アルコール度数の高い酒のみが禁止されましたが、規制派が 「酒が原因だ」 と主張していた殺人や強盗、強姦などの凶悪犯罪、あるいは離婚などの家庭不和や青少年の非行などは減りませんでした。 これらの犯罪や トラブル の原因が、アルコールとはほとんど関係がないのですから当然でしょう。 しかし規制派は、「これでは家庭や子供を守れない」「効果がないのは、他の酒があるからだ、全てを禁止すべきだ」「他の州は規制しているのだから、わが州も取り入れるべき」 と、さらなる規制強化を唱えます。
この時点で多くの酒造メーカーが廃業するなど業界として政治的な力を失っていて抗することができず、また一度決まった規制の段階的強化は一般国民の目にもわかりづらく、止めることができなくなってしまいました。 最終的には全ての酒が、アメリカ合衆国全体で禁止されることになりました。 この 「狂った規制」 で世の中が良くなることはなく、密造酒や非合法酒場を 運営 したマフィアやギャングがぼろ儲けをし、悪質な密造酒で1,500人以上が命を落とし、法律を無視して酒を飲む無数の国民により遵法意識の激しい低下を招きました。 また禁酒のためにアヘンやモルヒネ (当時は合法) の乱用も始まりました。 要するに、犯罪者が得をして社会秩序が混乱しただけに終わったのでした。
また禁止を強く訴えたのは、保守的な宗教系の婦人団体などでしたが、まだまだ時代的には男性優位なアメリカで、なぜ彼女らの訴えが国や議員を動かし次々取り入れられたのかも、考察すると興味深い状況が見えてきます。 当時の警察や政治家などは、「酒がなくなったら家庭が平和になり世の中が良くなる」 などという婦人団体の主張など、真に受けてはいませんでした。 禁酒法を支持したウィリアム・ジェニングス・ブライアン (William Jennings Bryan / 進化論裁判で反ダーウィンの立場で名を馳せた) のような保守派の大物もいましたが、それだけでは法律を作ることはできませんでした。
それでもなお法律が作られたのは、第一次世界大戦を終え穀物が全般的に不足していたこと、ビールを中心に敵国だったドイツ系移民の多くが酒造を生業としていたこともありますが、もっとも大きな理由の一つに、当時アメリカで移民の急増により排他主義が蔓延しつつあり、犯罪行為を行っていない移民を強権的・暴力的に取り締まるのに、この法律がすこぶる便利だったからなのでした。 罪を犯していない移民を肌の 色 や民族の違いだけで捕まえることは (実際はともかく建前上は) できませんが、「家庭を守るため」 との誰も反対できない美しい掛け声の元、違法化された酒を口実にすればできるようになります。 また自動車王ヘンリー・フォードはじめ産業界も、より良質な労働力の確保、労働生産性の向上が見込めるとしてバックアップしていました。
規制は、ある日突然、始まるものではありません。 最初はごく一部の規制から始まるのです。 そしてどんどんエスカレートしてゆきます。 様々な勢力や人々が、それぞれの思惑を持って規制を推進したり、規制強化の 「手柄」 を奪い合うからです。 そうしたことを防ぐためには、その規制の 「根拠」 が本当に存在するのか、それは客観的に見て信頼に足るのか、科学的に正しいことなのかを、きちんと調べないといけません。 根拠のない規制は別の目的を持つ者に利用され、規制そのものが目的化し、また必ず 「効果がない」 とされて撤廃されるどころか規制強化の新しい根拠として再利用され、エスカレートするのです。
なお禁酒法はその後1933年になって事実上の廃止がなされますが、この廃止に最後まで反対したのは禁酒法を求めていた宗教団体などではなく、実は公務員たちでした。 酒の取り締まりに多くの公務員が従事しており、自分たちの仕事を奪われることへの反発からでした。
ちなみにこれは余談ですが、現在日本で児ポ法の強化を推進している婦人団体の 「大元」 とも呼べる団体が、この日本にできたのは1886年のことでした。 アメリカで禁酒法制定を目的に1873年に組織されたキリスト教系婦人団体、Woman's Christian Temperance Union (キリスト教婦人矯風会) の日本支部としてでした。
中国の重慶にある合川信息網に2009年6月6日、いわゆるアダルトビデオ (AV) の女優を募集する広告が掲載されたそうです。 内容は 「15歳 から 50歳までの女性で、健康でAVに理解のある方、ギャラは出演作品により1,000元〜5,000元ほど」 だそうです。 この募集広告以前にも募集は行われていて、すでに数名が採用、日本にこれが伝わった10日段階で撮影に入っているそうです。
中国では15歳で、合法的にアダルトビデオに出演できるんですね。 チベットやウィグル、中朝国境では深刻な児童、幼児の 奴隷的 な人身売買などもあるそうですが、これは 「国連による児童の権利条約」 ではOKなんでしょうか? 全裸 で往来に突っ伏して物乞いする少女の姿が何度か報道されたこともありました。 すぐ隣の国の、つい最近の話です。
チベット騒乱の際は、その騒ぎが報道されてから1ヶ月以上も経って小さな コメント を出した中国人のアグネス・チャンさん。 「(政治的なことに対して) 私には口をはさめない。 歌だけで解決できないかもしれない」 と、心を痛めながらも非力な自分を責める善良な世界市民のような意見を仰っていました。 その人が、日本の衆議院の国会審議や議員会館、在日外国公館、国際機関などで、国家元首王妃や政府首脳、政治家らと一緒に 「法律を作れ」 とマスコミを前に声明を発表する。 これは政治的な発言ではないのでしょうか?
ご自分の酷い有様の国を先に何とかしてくださいとは申しません。 あなたにも都合があるのでしょうし、外国のことを日本人である筆者が、ああしろこうしろとあんまり云いたくありません。 しかし子供の人権をダシにして募金や署名を募ったり、高額のギャラを貰って講演会を開いたり、テレビに出て間違いだらけの嘘を喋るのは少々控えていただけませんか? 日本は、自分の国のことは自分で決めることができる国民が、ちゃんと住んでいる民主主義国家なのですから。
しかしあれですね、スウェーデン人やアメリカ人、イギリス人などの政府高官、有識者らが、根拠もなく 「日本は児童ポルノ大国です」「日本は世界でもNo.1の児童ポルノ輸出国です、No.1の加害国です」 と云われるとあっさり信じてショックを受けたり涙を流して悲しんだり怒ったりするのに、日本人の学者や一般市民が 「それはおかしい、ありえない」 と調査データや統計に基づいて事実誤認をいさめる抗議をすると 「中傷や脅迫めいた メール がたくさん届く」「オタクは嫌いじゃありませんが、児童ポルノのオタクは嫌いです」 と全く取り合わずに門前払い。
なんなんですかね、このアグネスって人。 2007年に北京の人民大会堂で日中国交回復35周年記念コンサートを開き、ズラリと並んだ中国共産党の幹部を前に歌声を披露したアグネスさん。 中国に自由に出入りできて、幹部とも懇意の様子。 香港や東京の一等地に複数ある自宅や事務所は風水の影響で金ぴかの高額な調度品だらけのようですが、いやはや、とんだ 「人権運動家」 もいたものです。